伝記
ホノリウスは、六五三年九月三十日に没したカンタベリー大司教である。生まれはローマまたはイタリアで、教皇グレゴリウス一世がアングロ・サクソン人をキリスト教に改宗させるために送ったグレゴリウス使節団の一員だった。使節団員のなかで最後に世を去った人物でもある。
使節団に加わった時期は定かでない。最初の一行に入っていた可能性もあるが、六〇一年に増援として送られた第二陣の一員だったとみるほうが有力とされる。ホノリウスという名が生まれつきのものか、大司教になるときに選んだものかも分かっていない。前任の第四代大司教ユストゥスは、六二七年から六三一年のあいだの不明の日に死去し、ホノリウスは第五代大司教となった。叙階は六二七年とされ、ヨーク司教パウリヌスが、リンジー地方のリンカーンの石造りの教会で彼を聖別した。
ホノリウスは教皇ホノリウス一世に手紙を送り、ヨークを大司教座に昇格させるよう願った。イングランドの大司教の一人が亡くなっても、もう一人が後継者を聖別できるようにするためである。教皇はこれを認め、パウリヌスに加えホノリウスにも大司教の印であるパリウムを送った。しかしノーサンブリア王エドウィンが戦死して異教の王たちがあとを継ぎ、パウリヌスは逃れざるをえなかった。パウリヌスはケントのホノリウスのもとに身を寄せ、ロチェスターの司教に任じられた。教皇書簡は六三四年六月付で、エドウィンの死が教皇に伝わっていなかったことをうかがわせる。この書簡はベーダの『イングランド教会史』に収められており、エドウィンの死は六三四年十月に改めるべきだとする見方もあり、六二七年から六三四年まで七年もパリウムを受けなかったのは長すぎるとして、ホノリウスの叙階年が六三四年に近かったのではないかという推測もある。
ホノリウスの在任中も、改宗事業は進んだ。六三〇年か六三一年ごろ、ブルグント人のフェリクスが大司教を訪ね、東アングリアで宣教したいと申し出た。ホノリウスは彼をダンウィッチへ送った。東アングリア王シギベルトは、亡命先の大陸で洗礼を受けており、そこでフェリクスと会って、大司教のもとへ行くよう促した可能性がある。フェリクスは東アングリア最初の司教となったが、ホノリウスが聖別したのか、すでに大陸で聖別を受けていたのかは分からない。六四四年ごろ、ホノリウスはパウリヌスの後任として、最初のアングロ・サクソン人司教イサマルを聖別した。その後継者もイングランド生まれだった。フェリクスのあとのダンウィッチの司教トマスを六四七年か六四八年に、ベルトギスルを六五二年か六五三年に聖別したのも、ホノリウスである。六四〇年に即位したケント王エオルケンベルトは有力な味方で、ベーダによれば、イングランドの王として初めて異教の偶像の破壊を命じ、四旬節の遵守を定めた。六五三年ごろには中部アングル人の王ペアダが洗礼を受けている。アイルランド人宣教師とは衝突が少なく、その指導者の一人アイダンを尊敬していた。ただし権威はケントと東アングリアの外には及ばなかった。
ホノリウスは六五三年九月三十日に没した。後継者のデウスデディトは、イングランド生まれで初のカンタベリー大司教で、聖別されたのは十八か月後だった。遺体はカンタベリーの聖ペトロ・パウロ修道院教会(のちの聖アウグスティヌス修道院)の西の玄関に葬られた。のちに聖人として敬われ、祝日は命日の九月三十日である。一〇九一年に遺骨は新しい墓に移され、そのころ修道士ゴスケリヌスが伝記を書いた。一一二〇年代にも聖アウグスティヌス修道院で遺骨は崇敬されていた。
同じ年に亡くなった人物
- ルバーバ・ビント・ハーリス (653年(推定))
- シゲベルト1世 (653年)
- アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ (653年)
- ロドアルド (653年)
- アブドゥッラーフ・イブン・マスウード (653年没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンス・ガーネット (1946年没)
- ジョー・シフェール (1971年没)
- チャールズ・ディケンズ (1870年没)
- ジョン・ジョージ・チルドレン (1852年没)
- ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵) (1857年没)