伝記
ペアダは、7世紀のマーシア王ペンダの息子である。656年に没した。父ペンダがノーサンブリア王オズウィとの戦いに敗れて655年11月に戦死したのち、オズウィによって南マーシアの王とされたが、翌656年春の復活祭の頃、王妃の裏切りによって殺された。
653年ごろ、ペアダは父ペンダの命によってミドル・アングルスの王となった。8世紀の神学者で歴史家のベーダは、彼を「非常に傑出した青年で、王の名と身分に実にふさわしかった」と述べている。ベーダによれば、ペアダはオズウィ王の王女エアルフレッドに求婚した。これに対してオズウィは、ペアダが洗礼を受け、ミドル・アングルスの民すべてがキリスト教に改宗することを結婚の条件とした。ペアダは父ペンダと同じく、このときまで異教徒であった。
ベーダの記すところでは、ペアダは真理の説教や天の国の約束、復活の希望、未来の不滅を聴き、たとえ王女を得られなくてもキリスト教徒になると喜んで宣言したという。とりわけ、オズウィ王の王子アルクフリッドが改宗を勧めた。アルクフリッドはペアダの妹でペンダ王の王女であるキュネブルグを妃に迎えることになっており、ペアダの義弟であり友人でもあった。ペアダはリンディスファーン修道院のフィナンから、ヴォルボトルと呼ばれる王の都市で、同行した側近や部族長、召使とともに洗礼を受けた。そして学識と徳行に優れた四人の司祭、ケッド、アッダ、ベッティ、ディウマを得て、喜びのうちに帰国した。このうちディウマだけがスコット人で、ほかはアングリア出身であった。アッダは、ゲイツヘッドの修道院で有名な司祭であり院長でもあったウッタの弟であった。司祭たちは国で神のことばを説き、住民に喜んで聴かれ、身分の高い者も低い者も偶像信仰を捨てて洗礼を受けていったという。
655年11月15日、ウィンウェドの戦いでペンダ王がオズウィに敗れて命を落とし、マーシアの実権はオズウィが握った。ベーダによれば、マーシアはトレント川を境に南北に分けられ、北マーシアは7000ハイド、南マーシアは5000ハイドであり、オズウィは南マーシアをペアダに与えた。『アングロサクソン年代記』によると、ペアダはピーターバラの修道院の建設にも関わった。ペアダとオズウィは会見し、キリストの栄光と聖ペテロの賛美のために修道院を建てたいと宣言した。そこにメデスワルという泉があることから、修道院はメデスハムステッドと名づけられ、サクスルフという修道士に託されたという。サクスルフは神の友であり、全人民に愛され、世に非常に高貴な人として生まれた強力な人物だったと年代記は語り、今ではキリストのもとで当時よりはるかに強力であるとも記している。年代記が伝えるとおり、この修道院は後のピーターバラ大聖堂につながる。
しかしペアダの治世は長くは続かなかった。『年代記』は、彼が復活祭の季節に自らの王妃に裏切られて殺されたため、長く統治することがなかったと記す。ベーダも、翌春の復活祭の祝日に妃の裏切りで悪辣にも殺されたと述べ、在位は一年にも満たなかった。ベーダはまた、妃の名をオズウィの王女エアルフレッドとしている。その後、ペンダの死から3年後に、インメン、エアファ、エアドベルトらマーシア人の将軍がペンダの遺児ウルフヘレを擁して謀反を起こし、ノーサンブリア人の勢力を駆逐して領土と自由を回復したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- タルハ・イブン・ウバイドゥッラー (656年没)
- アブドゥッラー・ブン・サアド・ブン・アビー・サルフ (656年没)
- ウスマーン・イブン・アッファーン (656年没)
- サルマーン・アル=ファーリスィー (656年没)
- シギベルト3世 (656年)
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