伝記
ウスマーン・イブン・アッファーンは、574年か576年ごろに生まれ、656年6月17日に没したイスラームの第3代正統カリフ(在位644年から656年)である。マッカのクライシュ族の支族ウマイヤ家の出身で、預言者ムハンマドの教友であり、その娘婿にあたる。莫大な財産を有していたため「富めるウスマーン」と呼ばれ、ムハンマドの2人の娘と結婚したことから「二つの光の持ち主」とも呼ばれた。
ウマイヤ家の豪商アッファーンと、ムハンマドの従姉妹にあたるアルワの子として生まれた。幼年期には不明な点が多いが、マッカの若者の中でも特に読み書きに長けた人物に成長したという。20歳のとき父が旅先で客死し、莫大な遺産を相続した。父と同様に交易に携わって成功し、数年のうちにクライシュ族有数の富豪になったが、不正を行わず、慎重で公正な姿勢を心掛けたと伝えられる。改宗の理由には、ムハンマドの娘ルカイヤへの思慕があったとも言われる。友人アブー・バクルの勧めでムハンマドに帰依し、ムハンマドの妻ハディージャを除けば、世界で2番目の入信者と数えられ、クルアーンの読誦に長けた7人の直弟子にも含まれている。ウマイヤ家の家長アル=ハカムは彼を縛って棄教を迫り、母アルワも勘当したが、決意は変わらなかった。ウスマーンは離婚ののち、アブー・バクルの提案でルカイヤを妻に迎えた。
迫害が激しくなると、615年に信徒を連れてエチオピアに移住し、交易を続けて貧窮者を援助した。この地で息子アブドゥッラーが生まれた。622年のヒジュラでマディーナに移り、ムハンマドの邸宅とモスクの建立に必要な土地の購入資金を出したほか、水の確保にも尽力した。624年のバドルの戦いでは、ムハンマドの命令で病のルカイヤの看病に残り、その最中に彼女は世を去った。625年末には、ムハンマドがルカイヤの妹ウンム・クルスームを彼に娶わせたが、彼女も630年に早世した。628年のフダイビーヤの和議では、交渉役を任された。
632年にムハンマドが没し、アブー・バクルがカリフになると、ウマルの次に忠誠の誓いを示した。ウマルは自分に正面から意見するウスマーンを信頼したという。ウマルは死に際して彼を後継者候補の一人に指名し、アリーら長老との会議を経て、644年11月7日、ウスマーンはカリフに即位した。651年ごろには、各地で異なっていたクルアーンの版を統一した。治世の前半には、中断されていたペルシア遠征を再開し、650年までに征服を完了し、651年にはサーサーン朝が滅亡した。彼はカリフとして初めて中国に使者を派遣した人物と考えられており、651年には唐の首都長安にイスラーム国家からの使者が訪れた。
しかし治世の後半、ウマイヤ家出身者を登用する政策は一門による権力の独占とみなされ、兵士たちの不満を招いた。656年、バスラ、クーファ、エジプトの兵士がマディーナに押し寄せ、邸宅を包囲した。ウスマーンは援軍の要請を出したが、反乱者との戦いも亡命も拒んで残った。6月17日、兵士たちは押し入り、クルアーンを読誦していた彼を殺害した。イスラーム史上初めてカリフが同胞のイスラーム教徒に殺害された事件として記憶されている。遺体は当日の日没の礼拝と夜の礼拝の間にマディーナのハッシュ・カウカブへ密かに葬られ、彼を助けようとして殺された召使いのサビーフとナジーフも、その墓の傍らに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ズバイル・イブン・アウワーム (656年没)
- ペアダ (656年没)
- サルマーン・アル=ファーリスィー (656年没)
- タルハ・イブン・ウバイドゥッラー (656年没)
- シギベルト3世 (656年)
同じ地域に関係する人物
- アブドゥッラーフ・イブン・マスウード (653年没)
- Jabir ibn Abd-Allah (697年没)
- アブー・サラマー (625年没)
- イブン・ハナフィーヤ (700年没)
- アブー・サイード・フドリー (693年没)