伝記
ハサン・イブン・アリーは、624年または625年に生まれ、669年3月26日に没した、預言者ムハンマドの初孫である。父はムハンマドの従兄弟アリー、母はムハンマドの娘ファーティマで、ヒジュラから約2年後に生まれた。大多数のシーア派ムスリムは彼を第2代イマームとして扱い、スンナ派の一部は第5代正統カリフとして扱う。弟フサインを第2代とするシーア派の分派もある。いずれにせよ、ムハンマドの家族であるアフル・アル=バイトの一人として、スンナ派とシーア派の双方で重要な人物である。シーア派の伝承では、「ハサン」(凛々しい)という名は、神の示唆を受けたムハンマドがつけたという。
ハサンと弟フサインは祖父ムハンマドに大いに愛されたとされ、それを示すハディースや口承が多く残る。
父アリーが暗殺されると、クーファのアリー支持者たちは、ハサンを後継のカリフとして忠誠を誓った。カリフ位を争っていたシリア総督ムアーウィヤにとって、これは脅威だった。ムアーウィヤは、支配下の司令官たちに戦いの備えを命じる一方、若いハサンにカリフ位の継承を断念するよう書簡を送った。ハサンが断念すれば内乱の危機は避けられ、戦って屈服させても、正当性に疑問が残って問題が尾を引くからである。交渉は進まず、ムアーウィヤは6万とされる軍を差し向け、ハサンも軍を送り、両軍はサバト近郊で対峙した。この緊張の中で、ハサンは共同体の分裂を憎み、同意できなくとも自分の命令に従うよう訴えたといわれる。これを降伏の下準備と受け取って刃を向ける者もあり、ハサンは負傷したが、忠誠を誓う兵士に守られた。
両軍の衝突は数度あったが、決着はつかなかった。ムアーウィヤは人命と人口の損失を憂えて、二人のクライシュ族の男性を停戦交渉に送り、ハサンも自身の負傷と軍内の不満から、長く続く内乱の終結を望んで交渉に応じた。スンナ派の学者によれば、ハサンは、ムアーウィヤがクルアーンとスンナに従うこと、ムアーウィヤの死後にカリフ選びの集会を開くこと、支持者への報復を禁じることを条件としたという。シーア派の学者は、ムアーウィヤの没後に、ハサンが存命ならハサンに、亡くなっていれば弟フサインにカリフ位を返すことも条件だったとする。のちにムアーウィヤはクーファへ進軍し、当地のムスリムに忠誠を要求し、ハワーリジュ派との戦いへの支持もハサンに求めたが、ハサンは、正当な権利をめぐる戦いさえ平和と調和のために断念した自分が、あなたとともに戦うとお思いか、と書簡で答えたと伝えられる。多くのカリフ年代記は、ハサンをカリフに数えない。称したのは短期間で、帝国のごく一部にしか認められず、やがてムアーウィヤのカリフ位を承認したからである。ただしスユーティーやイブン・カスィールらの一部のスンナ派の史家は、ムアーウィヤの前代のカリフとして認める。
ハサンは、669年(670年とする史料もある)にマディーナで没したというのが、史家の通説である。初期の情報源の多くは、死因を毒とし、ムアーウィヤが息子ヤズィードへの継承の障害とみて、ハサンの妻ジャーダに毒殺をそそのかしたと伝える。一方、スンナ派の一部の情報源は、病死で、ムアーウィヤは何もしていないとする。2016年に米国の研究チームが、東ローマ帝国産の鉱物による中毒を示唆した。シーア派の伝承では、ハサンは祖父の隣に葬られるのを望んだが、拒まれ、ジャンナトゥル・バキーの墓地に葬られたとされる。墓は巡礼地となり、ドームは1806年と1927年にワッハーブ派によって二度壊された。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- ハムザ (625年没)
- ハフサ・ビント・ウマル (665年没)
- ムスアブ・イブン・ウマイル (625年没)
- Rayhana bint Zayd ibn Amr (631年没)
- シャミール (1871年没)