伝記
ジョアシャン・ミュラは、1767年3月25日にフランス南西部のカオール近郊ラバスティド=フォルトゥニエールに生まれ、1815年10月13日に没したフランスの軍人で、元帥である。ナポリ王国の国王としてジョアッキーノ1世を称し、在位は1808年から1815年にわたる。アブキール、アイラウ、ドレスデンなどの突撃で名を馳せた、伝説的な騎兵指揮官として知られる。
旅籠屋を営むかたわら、タレーラン=ペリゴール家の不動産管理人も務めたピエール・ミュラの末子で、十一人または十二人のきょうだいの最後に生まれた。両親の希望で聖職者になるため神学校に入ったが、全く不向きで、遊びを好み、借金を重ねた。父の怒りを恐れて騎兵隊に入隊し、あるいは女性との駆け落ちで放校されたともされ、そこから軍歴が始まった。教養や弁舌、芸術的な趣味は学業の名残といわれる。2年ほどで軍曹にまで出世したが、1789年に命令違反で除隊され、帰郷して小間物屋、あるいは食料雑貨店の店員として働いた。風采がよく人気者だったので、郷里ではジャコバン派としてかなり有名になった。やがて軍に復帰し、浮沈を繰り返しながら若手の騎兵指揮官として頭角を現し、1792年には少尉になった。当時の士官は兵士の選挙で選ばれたため、これは部隊での人気を示している。
1795年のヴァンデミエールの反乱で、パリ市内の大砲を奪取する任務の志願者を募っていたナポレオン・ボナパルトと出会い、これに志願して成功させ、王党派の反乱の鎮圧に貢献した。その後ナポレオンのイタリア遠征に自ら志願し、エジプト遠征でも負傷しながら働いて、側近、また優秀な騎兵指揮官としての名声を確立した。1799年のアブキールの戦いでは自ら敵陣に切り込み、敵の大将を捕らえたと伝えられる。1800年にナポレオンの妹カロリーヌと結婚し、名実ともにボナパルト家の一員となった。1804年に元帥に昇進し、帝国顕官の大提督に就任した。アイラウの戦いでの決定的な働きは、軍事史上最も目覚ましい活躍の一つとして語り継がれる。ナポレオンは彼を「世界最高の騎兵」とたたえたが、高位の軍司令官としては判断力と決断力に欠け、元帥への昇進後は失策が目立ち始めたという。
1806年にベルク大公となり、1808年にはスペイン王となったナポレオンの兄ジョゼフに代わってナポリ王位を与えられた。改革派の南イタリア出身者を登用して自立を志向し、国民の利益にも配慮した政策を行った。この政策は一定の支持を得て、ミュラが処刑された後も、ミュラ派と呼ばれる勢力となって残り、イタリア統一運動の先駆者として評価する向きもある。一方で、権力欲の強い妃カロリーヌに焚きつけられ、自らの王国を守ろうとする態度が露骨になり、ナポレオンとの関係はぎくしゃくし始めた。1812年のロシア遠征に従軍し、大敗に終わると、独断でイギリスやオーストリアと交渉を始め、1814年にはフランスから離反した。ウィーン会議で王位の剥奪が決まり、ナポレオンがエルバ島を脱出すると、独断でオーストリアと開戦して大敗した。ワーテルローの戦いの後にナポリ奪回の兵を挙げて失敗し、逮捕され、銃殺刑に処された。銃殺隊には「顔は撃つな、まっすぐ心臓を撃て」と伝えたという。
自らを中世の騎士になぞらえ、サーベルには「名誉と貴婦人の為に」の座右の銘を刻み、派手な軍服で戦場を疾駆した。カロリーヌとの間には2男2女が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
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- ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌ (1815年没)
- ウィリアム・ニコルソン (化学者) (1815年没)
- カールステン・ニーブール (1815年没)
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