HISTORICAL PERSON · 1101年没

ケルンのブルーノ

カルトジオ会の創設者。ランス大聖堂付属学校の学長として名声を得て多くの高位聖職者を育て、後に司教叙任を拒み隠修生活を志向した。

生涯
1101年没
死亡地
イタリア共和国(ヴィボ・ヴァレンツィア県 / Certosa di Serra San Bruno)
出生地
ドイツ連邦共和国(ケルン)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴィボ・ヴァレンツィア県)

伝記

ケルンのブルーノは、1030年ごろ、ドイツのケルンに生まれた。家名は確定していないが、身分の高い家の出身だったとされる。ランス大聖堂付属学校で人文学と神学を学び、ケルンでは聖クニベルト教会の律修司祭となった。1056年にランスへ呼び戻され、付属学校の神学教師となった。翌1057年、師ヘリマンの引退に伴って学長を継ぎ、教区内の教会学校を統括した。門下には、のちに教皇となるシャティヨンのユードや、枢機卿、司教、修道院長となる者たちがいた。人文学と神学を教える教師として名声を得た。

1075年、ランス教区の参事官に任命され、教区の行政にも携わった。しかし大司教マナッセ・ド・グルネーの聖職売買を批判し、対立が深まった。1077年にはブルーノらの求めで大司教がオータンの教会会議に査問されたが、大司教は反対者を攻撃し、ブルーノも職や収入を失って追放された。1080年のリヨンの会議で大司教の罷免が決まり、教皇の承認を得た。後任としてブルーノを望む声が上がったが、本人は司教の座を辞退した。孤独と祈りの生活へ退くことを決め、財産を貧者に分け与えた。

1083年、二人の仲間とともにブルゴーニュのモレームのロベールを訪ね、セッシュ・フォンテーヌで隠修生活を始めた。しかし、仲間が共同生活へ向かうのに対し、ブルーノはさらに独居に引かれた。1084年には六人の同志を連れてグルノーブル司教ユーグのもとへ向かった。ユーグは一行に、ドーフィネのシャルトルーズ山地の静かな土地を与えた。これがカルトジオ会の始まりとなるグランド・シャルトルーズである。一行はブルーノを含む五人の聖職者と二人の平信徒から成り、貧しい生活のなかで祈りと研究に打ち込んだ。1085年には教会と回廊、独居房が整い、修道士たちは別々に暮らし、礼拝のために集まる生活を営んだ。

1088年、かつての弟子ユードが教皇ウルバヌス2世となった。1090年、教会改革を進めるため師の助言を求め、ブルーノをローマへ召した。ブルーノは共同体をランドゥインに任せ、教皇とラテラン宮殿に暮らして助言者を務めた。皇帝ハインリヒ4世が南下すると教皇に伴って南イタリアへ移り、レッジョ・カラブリアの大司教に推されたが、これも固辞した。サレルノの修道院へ退き、フランスの隠棲生活に戻る意思を伝えたものの、教皇の希望でイタリアにとどまった。1091年、スクィラーチェ教区の森の谷間に、木の礼拝堂と小屋を備えた新しい隠修共同体を設けた。

この共同体は聖母マリアに捧げられ、シチリア兼カラブリア伯ルッジェーロ1世が土地を寄進して保護した。伯の援助により1095年には聖ステファノ修道院も完成した。1097年、ブルーノは伯の息子ルッジェーロに洗礼を施し、1098年には病気の伯をミレトの宮廷に訪ねた。1099年に教皇、1100年にランドゥイン、1101年に伯が世を去り、ブルーノ自身も1101年10月6日に死去した。聖母に捧げた共同体の墓地に葬られた。著作には詩篇やパウロ書簡の注釈、信仰についての二通の書簡、短い哀歌が残る。カトリック教会で聖人とされ、祝日は命日の10月6日である。

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