伝記
ケルンのブルーノは、1030年ごろ、ドイツのケルンに生まれた。家名は確定していないが、身分の高い家の出身だったとされる。ランス大聖堂付属学校で人文学と神学を学び、ケルンでは聖クニベルト教会の律修司祭となった。1056年にランスへ呼び戻され、付属学校の神学教師となった。翌1057年、師ヘリマンの引退に伴って学長を継ぎ、教区内の教会学校を統括した。門下には、のちに教皇となるシャティヨンのユードや、枢機卿、司教、修道院長となる者たちがいた。人文学と神学を教える教師として名声を得た。
1075年、ランス教区の参事官に任命され、教区の行政にも携わった。しかし大司教マナッセ・ド・グルネーの聖職売買を批判し、対立が深まった。1077年にはブルーノらの求めで大司教がオータンの教会会議に査問されたが、大司教は反対者を攻撃し、ブルーノも職や収入を失って追放された。1080年のリヨンの会議で大司教の罷免が決まり、教皇の承認を得た。後任としてブルーノを望む声が上がったが、本人は司教の座を辞退した。孤独と祈りの生活へ退くことを決め、財産を貧者に分け与えた。
1083年、二人の仲間とともにブルゴーニュのモレームのロベールを訪ね、セッシュ・フォンテーヌで隠修生活を始めた。しかし、仲間が共同生活へ向かうのに対し、ブルーノはさらに独居に引かれた。1084年には六人の同志を連れてグルノーブル司教ユーグのもとへ向かった。ユーグは一行に、ドーフィネのシャルトルーズ山地の静かな土地を与えた。これがカルトジオ会の始まりとなるグランド・シャルトルーズである。一行はブルーノを含む五人の聖職者と二人の平信徒から成り、貧しい生活のなかで祈りと研究に打ち込んだ。1085年には教会と回廊、独居房が整い、修道士たちは別々に暮らし、礼拝のために集まる生活を営んだ。
1088年、かつての弟子ユードが教皇ウルバヌス2世となった。1090年、教会改革を進めるため師の助言を求め、ブルーノをローマへ召した。ブルーノは共同体をランドゥインに任せ、教皇とラテラン宮殿に暮らして助言者を務めた。皇帝ハインリヒ4世が南下すると教皇に伴って南イタリアへ移り、レッジョ・カラブリアの大司教に推されたが、これも固辞した。サレルノの修道院へ退き、フランスの隠棲生活に戻る意思を伝えたものの、教皇の希望でイタリアにとどまった。1091年、スクィラーチェ教区の森の谷間に、木の礼拝堂と小屋を備えた新しい隠修共同体を設けた。
この共同体は聖母マリアに捧げられ、シチリア兼カラブリア伯ルッジェーロ1世が土地を寄進して保護した。伯の援助により1095年には聖ステファノ修道院も完成した。1097年、ブルーノは伯の息子ルッジェーロに洗礼を施し、1098年には病気の伯をミレトの宮廷に訪ねた。1099年に教皇、1100年にランドゥイン、1101年に伯が世を去り、ブルーノ自身も1101年10月6日に死去した。聖母に捧げた共同体の墓地に葬られた。著作には詩篇やパウロ書簡の注釈、信仰についての二通の書簡、短い哀歌が残る。カトリック教会で聖人とされ、祝日は命日の10月6日である。
同じ年に亡くなった人物
- 道宗 (遼) (1101年没)
- コンラート (イタリア王) (1101年没)
- ユーグ1世 (ヴェルマンドワ伯) (1101年没)
- ムスタアリー (1101年没)
- 蘇頌 (1101年没)
同じ地域に関係する人物
- ルッジェーロ1世 (シチリア伯) (1101年没)
- ジョアシャン・ミュラ (1815年没)
- シモーネ・ダルタヴィッラ (1105年没)