伝記
アンジェイ・タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコは、1746年2月4日に生まれ、1817年10月15日に亡くなったポーランド・リトアニア共和国の将軍で政治家である。アメリカ合衆国の軍人としても戦い、1794年の蜂起の指導者として、ポーランドとリトアニアで国民的英雄とされる。リトアニア大公領のメラチョウシュチナ村、現在のベラルーシ領で、先祖がジグムント1世の宮廷に仕えたというベラルーシ系の貴族の家に、末子として生まれた。父はポーランド・リトアニア軍の将校ルドヴィクで、母はテクラといった。当地では東方正教会とローマ・カトリックが併存しており、彼は双方の教会で洗礼を受けて、アンジェイとタデウシュという二つの洗礼名を授かった。
1755年にリュビェシュフの学校に通い始めたが、1758年に父が亡くなり、家の財政難から学業を終えなかった。1765年12月に、国王スタニスワフ・アウグストが設けたワルシャワの士官学校に入り、1766年に卒業して、そのまま学生兼教師として1768年に大尉になった。1769年から1774年の間は、ドイツ、イタリア、フランスなどで軍事教育を受けたが、外国人はフランスの軍学校に入学できず、パリの軍学校の授業や図書館に通って学んだ。1774年に帰国すると、兄が家のわずかな財産を使い果たしており、軍に彼の居場所はなかった。ある有力者の家庭教師となって娘ルドヴィカを愛し、駆け落ちを計画したが、父の召使に見つかって殴られた。この出来事が階級差への反感を生んだとも考えられる。1775年の秋、再びパリへ向かった。
1776年から1783年までは、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加した。1776年6月にフランスの武器密輸会社の船で植民地に渡り、フィラデルフィアの要塞化に携わった。ジョージ・ワシントンの副官としても戦い、大陸会議により外国人ながら陸軍准将に昇進した。この間、トーマス・ジェファーソンらの自由主義思想に強く影響された。
帰国後の1791年、ヨーロッパ初の民主主義的な成文憲法とされる「5月3日憲法」を制定した4年議会に参加した。中道左派の立場から、愛国党内の穏健改革派と急進改革派との間を取り持ち、巧みな政治手腕を発揮した。1792年、新憲法をめぐるロシア帝国の干渉と戦ったが敗れ、ライプツィヒやパリで亡命生活を送った。1793年の第二次ポーランド分割後にポーランドへ戻り、ジャコバン派と農民を糾合してクラクフで蜂起した。最大の戦闘ラツワヴィツェの戦いでロシア軍に大勝し、一時はワルシャワとヴィリニュスを押さえた。しかし、兵力を補充するロシア・プロイセン連合軍に圧倒され、1794年10月には戦傷を負ってロシア軍に捕らわれた。この敗北により、ポーランド国家は消滅する。
1798年にフランスへ亡命したが、ナポレオンの帝国思想やポーランド政策には同調しなかった。その後スイスに移り、ゾーロトゥルンで腸チフスにかかって亡くなった。ワシントンとの間には、コシチュシュコという姓が言いにくいと言われて、「君のワシントンも僕のコシチュシュコも、どちらもたったの3音節なのにかい」と返したという逸話が伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルト (1817年没)
- ナンシー・ストーラス (1817年没)
- マルティン・ハインリヒ・クラプロート (1817年没)
- ジェイン・オースティン (1817年没)
- ナクシディル・スルタン (1817年没)
同じ地域に関係する人物
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- Edgar Buchwalder (2009年没)
- Max Bloesch (1997年没)
- ルドルフ・シュタイナー (1925年没)
- カール・ルートヴィヒ・ハラー (1854年没)