HISTORICAL PERSON · 691年没

ザイナブ・ビント・ジャフシュ

ムハンマドの7番目の妻で従妹。養子ザイド・イブン・ハーリサと離婚した後、養子の妻とは結婚できるという啓示が下ったことでムハンマドと結婚し、自らの婚姻を特別視した。

生涯
691年没
死亡地
サウジアラビア王国(マディーナ州 / マディーナ)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(マディーナ州)

伝記

ザイナブ・ビント・ジャフシュは、イスラーム教の開祖ムハンマドの妻のひとりで、従妹にあたる女性である。ムハンマドの叔母ウマイマ・ビント・アブドゥルムッタリブの娘で、生年は590年ごろとされる。没年は641年とも691年ともいわれ、一致しない。ムハンマドの7番目の妻と数えられる。

父方ではアサド族の系統に属した。祖父のリアーブは、アラビアの部族間の争いの中で故郷を離れ、メッカに居を定めて、アブド・シャムス家と同盟関係を結んだ。父はムハンマドが預言者としての活動を始める前に亡くなっている。兄弟たちはみなイスラームを受け入れ、のちにメディナへ移ったが、メッカに残した財産はクライシュ族に没収された。ザイナブも最初期のムスリムのひとりで、家族とともにヒジュラに加わった。最初の結婚の前に独身だったのか、寡婦だったのかは伝承によって分かれ、多くは独身とするが、寡婦だった可能性を述べる話もある。結婚のころは30歳ほどかそれより少し上で、のちに、気性が強く、信仰に熱心で、率直な女性だったと語られた。色白でふくよかな体つきの美貌だったともいう。

ヒジュラの後、ムハンマドは彼女の縁談を整えると告げた。ザイナブは自分への求婚だと思って、預言者が良いと思うものを受け入れると答えたという。ところが相手は、ムハンマドの養子で解放奴隷のザイド・イブン・ハーリサだった。ザイナブはこの話を断り、兄弟も同じ立場だった。ムハンマドはこの縁組で、自由人と解放奴隷の身分の違いが、ムスリム同士の結婚の妨げになってはならないと示そうとしたと伝えられる。迷っているうちに「神とその使徒が事を決したとき、信者の男も女も、別の選び方をしてはならない」という啓示が下った。ザイナブは、ザイドが夫にふさわしいとムハンマドに保証されて承諾し、家族もそれを受け入れた。結婚契約の婚資には、10ディーナール、60ディルハムのほか、衣類や穀物、ナツメヤシの実などが定められた。このときザイドにはすでに妻ウンム・アイマンとの間に息子ウサーマがいた。

しかし夫婦の暮らしは難しかった。ザイナブの性格が強いこともあり、身分の差もあって、二人は初めから共に暮らすのが困難だと感じていたとされる。約1年後、ザイドはムハンマドのもとを訪れて不和を訴え、別れたいと申し出た。ムハンマドはそのたびに、神を畏れて妻のもとにとどまるよう説得したが、不和は続き、離婚は避けられなくなった。離婚の後、ザイドが彼女との関係を終えたとき、信者が養子の元妻と結婚することに支障がないように、その女性をムハンマドに娶わせたという趣旨のクルアーンの章句が下った。イスラームの伝承では、これが養子を実子と同じに扱う前イスラーム期の慣習を廃した啓示とされる。こうしてザイナブはムハンマドと結婚した。彼女は他の妻たちが親によって嫁がされたのに対し、自分だけは神がムハンマドにめあわせたのだと誇った。

ムハンマドの妻のなかでアーイシャとは、夫をめぐって対立していた。しかしアーイシャに不義の疑いがかけられた事件では、ザイナブはその潔白を主張して擁護した。礼拝に熱心で、寛大で、貧しい人々への施しで知られ、ムハンマドの死後も受け取った金をほとんど配り、財産を残さずに亡くなった。いくつものハディースを伝え、その生涯は、イスラームにおける養子をめぐる法の議論と、ムハンマドとの結婚をめぐる歴史学上の議論の双方に結びつけられている。

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