伝記
プロタゴラスは、古代ギリシアの哲学者で、ソフィストの一人に数えられる。生年は紀元前490年ごろとされ、プラトンが70歳で没したと述べることから、没年は紀元前420年ごろと考えられている。ただし90歳前後で亡くなったと伝える資料もあり、確かなことは分かっていない。トラキア海沿岸の町アブデラの生まれで、父の名はマイアンドロスと伝えられる。生涯の細部は伝承に覆われており、資料同士の食い違いも多い。
出自についても二つの説がある。ピロストラトスは、父がトラキア屈指の富豪で、第二次ペルシア戦争の際にペルシア王クセルクセスをもてなしたと記し、その縁で少年期にペルシアの神官から教えを受けたとする。しかし歴史家はこれを後世の作り話と見る。一方ディオゲネス・ラエルティオスは、貧しい身の上で荷物を運ぶ仕事をしていたとし、その工夫の才をデモクリトスに見出されて弟子になったと語る。だが、デモクリトスは彼より約30歳若いとされ、この話も年代が合わない。
やがてソフィストとなった彼は、ギリシア各地を巡り、みずからを「徳の教師」と称した。30歳ごろから教える活動を始め、後半の約40年をこの仕事に費やしたとされる。知識の教授を職業として確立し、シチリアとアテナイで初めて報酬を取って教えた人物としても知られる。アテナイには何度も滞在し、最初の訪問は紀元前460年ごろかとされる。紀元前444年、あるいは441年には、破壊されたシュバリスに代わる南イタリアの植民都市トゥリオイの建設にあたり、新しい法を定めるよう委嘱されたと伝わる。最終的にできた憲法が民主的な性格のものだったとは言えないが、この委嘱は彼とアテナイの権力との間に一定の近さがあったことを示すと見られる。アテナイでは、ある日一日じゅうペリクレスと法的責任の問題を論じ合ったという話も残っている。
思想の中心は「人間が万物の尺度である」という言葉にある。物事が本当にどうあるかよりも、人にどう見えるかを重んじ、それぞれの人が尺度であるから、相反する主張がともに成り立ちうると説いた。これは絶対的な知識や道徳、価値の存在を否定する相対主義の代表的な主張とされ、他人を説得する技術としての弁論術の祖とも呼ばれる。反対の議論をどちらも成り立たせて見せる教えは、後に、黒を白と言いくるめる詭弁だと非難され、ソフィストという語そのものが悪い響きを帯びるようになった。一方で、人間を基準に据えた彼の立場は、人間を尺度とする復興を掲げたルネサンスの思想とも重ねて評価され、西洋哲学におけるソフィストの存在を軽んじてはならない証しとされる。神々については、存在するかどうか知らないと書いたと伝えられ、不可知論的な立場の先駆とされる。
晩年には、著書『神々について』の公開朗読をきっかけに不敬の罪で訴えられ、アテナイを追われ、著作も広場で焼かれたという話がある。だが、こうした情報はほとんど裏づけがなく、プラトンは死ぬまで広く尊敬を集めたと書いている。弟子エウアトロスとの、授業料の支払いをめぐる裁判の逸話も伝わるが、喜劇のような筋立てで、実話かどうかは疑わしい。プラトンは対話篇『プロタゴラス』で彼を主役に据えており、その名は後世まで語り継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- ゼノン (エレア派) (紀元前430年代没)
- ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥス (紀元前 430年(推定))
- エンペドクレス (紀元前430年代没)
- メリッソス (紀元前 430年(推定))
- ペイディアス (紀元前430年代没)
同じ地域に関係する人物
- メトロクレス (紀元前300)
- ルトフィー・パシャ (1564年没)
- マルクス・ユニウス・ブルトゥス (紀元前42年没)
- プブリウス・セルウィリウス・カスカ (紀元前41)
- Bion of Abdera (紀元前369)