伝記
メレシアスの子トゥキュディデスは、古代アテナイの有力な政治家で、長年にわたり強力な保守派を率いた人物である。のちの歴史家・将軍であるオロロスの子トゥキュディデスと血縁があった可能性は高いが、詳細は定かでない。母方の祖父と孫の関係と考えれば、手がかりと辻褄が合うとされる。ペリクレスの時代、民主派の指導者に正面から対抗した貴族派の領袖として知られる。アテナイのアロペケ区に生まれたが、正確な生年は分かっていない。家柄は貴族で、保守派の指導者として人望のあった将軍キモンの親族でもあった。キモンの死後はその後を継いで保守派を率い、当時アテナイを主導していたペリクレスに激しい反対を唱える道を選んだ。
この保守派の考え方は、クセノポンの著作集に含まれる『アテナイ人の国制』の筆者、いわゆる「老寡頭派」の主張に最もよく表れているとされる。ドナルド・ケーガンは、トゥキュディデスの最終的な狙いは、エフィアルテスが行った国制の改革を覆し、キモンの時代にあった貴族的で保守的な政治を復活させることだったと論じる。ただしそれを公言すれば民主制を支持する多数派の離反を招くため、公には口にできなかったという。
政治力が頂点に達したのは、第一次ペロポネソス戦争が終わり、紀元前440年代の初めにアテナイの帝国が再編された後であった。このころ彼は新しく効果的な戦術を編み出した。支持者たちを議会の席で一か所にまとめて座らせ、勢力を実際より大きく見せるとともに、ひとつにまとまった声を上げさせたのである。ケーガンは、この工夫が組織だった反対運動を可能にし、ペリクレス支持者の内部にあった思想上の違いを表に出させたと主張する。
紀元前444年には、保守派と民主派が激しく衝突した。後世の研究者には細部を疑う者もいるが、プルタルコスの記述によれば、保守派の新しい指導者となったトゥキュディデスは、民主派の指導者ペリクレスが壮大な建築計画に公金を湯水のように使っていると非難した。彼は民会の感情を自分に有利なように燃え立たせることに成功した。しかしペリクレスが登壇すると、空気は一変した。ペリクレスは、建築の費用を全額自分の私財で賄う、ただしその代わり、それらの記念建造物はアテナイのものではなく自分のものにする、と提案したのである。市民はこの姿勢に喝采し、トゥキュディデスは名演説家を相手に思いがけない敗北を喫した。この失敗の結果、彼は紀元前442年に10年間の陶片追放に処され、ペリクレスは再び対抗者のいないまま、アテナイの政界に立つこととなった。プルタルコスは、こんな逸話も伝えている。スパルタ王アルキダモス2世がトゥキュディデスに、あなたとペリクレスはどちらが優れた闘士かと尋ねたところ、彼はためらうことなく、ペリクレスのほうが優れていると答えた。負けたときでさえ、聴衆に自分が勝ったと信じ込ませてしまうからだというのである。
追放されたのち、彼は南イタリア、タラント湾沿岸のギリシア人都市シュバリス、あるいはアイギナへ旅したといわれるが、確かめられてはいない。アリストパネスの喜劇『蜂』には、圧倒的な弁舌を振るう告発者(ペリクレス)に黙らされる被告の例として、その名が出てくる。またアテナイにいたころ、ペリクレスの個人的な友人であった哲学者アナクサゴラスを、無神論とペルシアへの同情のかどで告発したとも伝えられている。
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