HISTORICAL PERSON · 708年没

杜審言

670年に進士となった唐代の詩人で、李嶠らと「文章四友」と呼ばれた。五言律詩を得意とし『杜審言集』が編まれた。才を恃んで放言し、張易之と親しかったため左遷された。孫に杜甫がいる。

生涯
708年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(襄陽市)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

杜審言は、中国唐代の詩人である。字は必簡(比肩とも)で、襄州襄陽県、現在の湖北省襄陽市の出身である。本貫は京兆郡杜陵県で、西晋の名将杜預の子孫にあたる。曾祖父は杜叔毗、祖父は杜魚石、父は杜依芸で、従兄に杜易簡がいる。子には杜閑・杜並・杜専・杜登らがあり、孫は後に名高い詩人となる杜甫(712年〜770年)である。生年は貞観19年(645年)とされるが、648年とする説もあり、確定していない。

若いころから李嶠・崔融・蘇味道とならぶ詩人として知られ、四人は「文章四友」と呼ばれた。才能は豊かだったが、それを強く恃み、大胆な放言をしては周囲に憎まれたという。上の立場の人に対しては弱く、武則天に召し出されたときには、必要以上に媚びて感謝したとも伝わる。それでも詩を絶賛されるなど、才能そのものは認められていた。官歴は地方の下級官から始まった。才能を鼻にかける傲慢さのため、役人の間では好かれず、低い地位にとどまったとされる。666年ごろから諸県の属官を務めた。咸亨元年(670年)、ごく若くして進士に及第し、翌年に隰城県の尉となった。675年には別の県の尉に転じ、680年には名の伝わらない県の官となった。690年には臨台で職に就き、693年に常州江陰県の県丞となったが、その年の春から夏のうちに職を離れた。4年後の697年には洛陽県の県丞に移った。

698年、過失により吉州の属官に降格された。翌年、吉州にいた杜審言は、同僚の郭若訥と周季重の感情を損ね、二人に陥れられて死刑を宣告された。16歳の子の杜並は父の仇を討とうと、周季重の屋敷に忍び込んで周季重を殺したが、自身もその場で衛兵に殺された。杜審言は処刑を免れたが官を解かれ、東都洛陽へ戻った。

702年、武則天は杜審言を召して著作佐郎に任じ、翌年には御膳を扱う部局の補佐官に進めた。このあと杜審言は、宮廷の頌歌や、その場に応じた作を主に詠むようになった。705年、神龍の政変で武則天が失脚すると、彼女の寵臣である張易之・張昌宗兄弟を支持したとして左遷され、嶺南の峰州に流された。峰州は現在のベトナムのフート省にあたるともされる。707年に恩赦を受けて北へ戻り、国子館主簿と修文館直学士に任じられた。

翌708年、60歳余りで病没し、死後に著作郎を贈られた。死に際して、見舞いに来た友人の宋之問らに「わたしの才能が今まで君たちを押さえ込んできたが、これから死ぬからにはさぞ喜ばしかろう」と言い放ったという。最後まで高慢だったと述べる同時代人も多い。詩は五言律詩を得意とし、書にも巧みだったという。辺境への送別、風景、嘆き、詩の応酬、流謫の旅人の感慨を題材にし、辺塞詩の分野の作もある。武則天に認められた702年以降は、宮廷を称える詩や折々の作が中心となった。七言律詩がなく五言律詩も円熟していなかった唐初に、この二つの詩型の美しさを広めた最初の人物とされる。生前すでに詩は高く評価されていた。現存する作の大半は五言律詩である。『杜審言集』は明代に編まれた。『新唐書』によれば詩集は十巻あったが、多くが失われた。後世には四十二首を収める『杜必簡集』が『直斎書録解題』に挙げられ、『全唐詩』の第62巻に39首が収められ、『唐詩三百首』には「晋陵の陸丞の早春遊望に和す」が、同書の94番として採られている。この詩は、晋陵の路丞との唱和の作である。

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