伝記
太平公主は、唐の高宗の娘で、母は武則天である。公主とは皇帝の娘を指すが、父母がともに皇帝であった点で珍しい。同母兄に中宗と睿宗がいる。生年は不明で、662年より後、665年ごろとする説もある。本名は伝わらないが、後世の史料から李令月とする説がある。713年に没した。高宗の末娘として生まれ、少女のころは洛陽の紫微宮に暮らした。5、6歳のころ、祖母の栄国夫人の家を訪れた際、同行した宮女が従兄の賀蘭敏之に辱められた。武則天は激怒し、賀蘭敏之から武家の跡継ぎの地位を奪って流罪とし、護送の途中で処刑させた。
8歳のとき、武則天の母の楊氏が亡くなったのを機に、一度出家して太平の道号を授けられた。武則天は容姿も性格も自分によく似たこの娘を寵愛した。吐蕃から公主を嫁がせてほしいとの申し出があった際も、決して許さなかった。高宗は、これを角を立てずに断るため、太平観という道観を建て、公主をその観主とした。681年、薛紹に嫁いだ。薛紹は、高宗の妹の城陽公主の子で、公主の従兄弟にあたる。婚礼は盛大で、宮中から薛家のある宣陽坊まで松明が並び、熱と煙で沿道の木が焦げたと伝わる。二人の間には二男二女が生まれ、息子は薛崇訓と薛崇簡、娘の一人は686年の生まれで、のちに万泉県主の号を得た。ところが688年、越王李貞とその子李沖の謀反に薛紹の兄弟が加わっていたことが発覚し、薛紹も捕らえられ、杖で100回打たれたうえ飢えさせられて死んだという。薛紹の兄弟のうち二人は斬首された。
683年に高宗が亡くなり、兄の中宗が即位したが、実権は皇太后の武則天にあった。684年に中宗が自立の気配を見せると廃され、もう一人の兄の睿宗が立てられたが、武則天の支配はさらに固くなった。公主は母に重んじられて、しばしば国事の相談を受け、垂簾政治を支える一翼となった。690年、武則天は公主を武攸暨に再嫁させた。武攸暨は武則天の伯父武士譲の孫で、すでに妻があったが、その妻は処刑された。公主はこの夫との間にも二男二女をもうけた。武則天が帝位に就いて武周を建てると、公主は側近として隠然たる勢力を持った。武則天が病に倒れると、愛人の張易之・張昌宗の兄弟が専横を極めたため、705年に彼らを倒し、兄の中宗を即位させた。これによって皇族の重要人物として名を高め、鎮国太平公主の号を贈られた。
その後、宰相の張柬之により武則天は退位し、唐が復活した。しかし武三思が張柬之を失脚させ、安楽公主と結んだ。710年、不倫の露顕を恐れた安楽公主が韋后と組んで、中宗を毒殺したという。韋后は温王李重茂を擁立して傀儡としたが、公主は甥の李隆基(のちの玄宗)と謀り、韋后と安楽公主とその一族を誅殺して、李隆基の父、相王李旦(睿宗)を即位させた。これで公主の権勢は頂点に達し、万戸の封を与えられ、生んだ男子3人も王に封じられ、一族は高位高官を占めた。一方、宰相の姚崇と張説を左遷させるなど専権を振るい、皇太子の李隆基との対立を深めていった。
712年に睿宗が李隆基に譲位して玄宗が立つと、対立は激しくなった。公主は英明な玄宗を廃そうと謀ったが、陰謀は露顕した。713年7月、玄宗が自ら兵300余りを率いて公主の一派を倒し、公主に死を賜った。終生の禁固にとどまったとする説もある。8月2日に亡くなったとされる。以後、玄宗の親政の体制が確立し、「開元の治」と呼ばれる唐の最盛期へつながっていった。
同じ年に亡くなった人物
- 慧能 (713年没)
- サイード・ブン・アル=ムサイイブ (713年(推定))
- ウルワ・ブン・ズバイル (713年没)
- Ealdwulf of East Anglia (713年)
- アナス・ブン・マーリク (713年)