HISTORICAL PERSON · 紀元前400年代没

ヘルモクラテス

シュラクサイの軍人。ゲラ会議でシケリア諸都市の和平をまとめ、アテナイのシケリア遠征軍を撃退する立役者となったが、後の帰国を図る戦いで戦死した。

生涯
紀元前400年代没
死亡地
イタリア共和国(シラクーザ県 / シラクサ)
出生地
シラクサ(Syracuse)
出典
世界地図
イタリア共和国(シラクーザ県)

伝記

ヘルモクラテスは、シケリア島の都市国家シュラクサイの軍人であり外交官である。紀元前450年ごろに生まれ、紀元前408年から407年にかけての冬に没した。ペロポネソス戦争ではアテナイに対抗する陣営で働き、シケリア遠征に来たアテナイ軍を撃退した人物として知られる。ヘルメスの子孫を称するシュラクサイの名門貴族ヘルモンの子で、若いころから戦争に加わって軍功を立てたとされるが、紀元前424年のゲラ会議より前の詳しい記録は残っていない。

紀元前425年、アテナイの同盟都市レオンティノイとシュラクサイが戦うと、アテナイはレオンティノイの求めで艦隊をシケリアへ送り、諸都市に同盟を呼びかけた。紀元前424年、ヘルモクラテスはシュラクサイの外交官としてゲラ会議で演説し、シケリア人どうしの争いをやめて団結するよう訴えた。その結果、シケリアの和平が実現するとともに、島全体が反アテナイの側に引き込まれ、到着した艦隊に協力する国はなく、艦隊は何もせずに引き返した。

紀元前415年、アテナイがアルキビアデス、ニキアス、ラマコスを指揮官とする大軍をシケリアへ送ると、ヘルモクラテスは防衛体制の拡充を訴え、諸都市に共闘を呼びかけた。アテナイ軍がカタネを拠点にし、シュラクサイ軍がオリュンペイオンで敗走したのち、彼は指揮系統の効率化を演説で訴えてヘラクレイデス、シカノスとともに最高司令官に選ばれ、全権を任された。冬のあいだに市は城壁を築き、ヘルモクラテスはカマリナへ出向いて中立を約束させた。翌年にはアテナイがエピポライの台地を奪い、シュラクサイは降伏寸前になったが、スパルタが送ったギュリッポスの援軍がアテナイ軍を破り、ラマコスは戦死した。紀元前413年にデモステネスの率いる追加の艦隊が来ても、エピポライへの夜襲はヘルモクラテスの奮闘で失敗した。アテナイ軍は月食で撤退の時機を逃し、艦隊が全滅するほどの敗北を喫した。捕虜になったニキアスとデモステネスは、ヘルモクラテスとギュリッポスの助命嘆願にもかかわらず、民衆派ディオクレスの主張で処刑された。

紀元前412年、ヘルモクラテスはスパルタとの同盟の重要さを説き、シュラクサイ艦隊を率いてスパルタのアステュオコスの指揮下に入り、東エーゲ海でアテナイと戦った。艦隊長として優れた手腕を見せたが、その間に祖国ではディオクレスが実権を握った。紀元前410年のキュジコスの海戦でスパルタ連合艦隊が壊滅すると、ヘルモクラテスは全艦を焼いて逃れ、部下を捕虜になることから救った。それでも本国で敗走の責任を問われ、紀元前409年に艦隊長を解任されて国外追放を宣告された。スパルタ、続いてペルシアへ亡命し、ペルシアの援助で艦隊と軍隊を整えた。

紀元前409年、ハンニバル率いるカルタゴ軍がシチリアへ侵攻し、セリヌスなどを蹂躙した。ヘルモクラテスは私軍とともにメッサナへ上陸し、セリヌスを再建して、カルタゴの支配下に落ちた土地のいくつかを解放した。紀元前408年にはヒメラでシュラクサイ人の遺骨を拾い、本国へ送った。これを機にディオクレスは失脚した。冬、ヘルモクラテスは3,000人の軍を率いてシュラクサイへの入国を強行しようとし、友人たちと町に入ろうとしたところでシュラクサイ軍と衝突して戦死した。のちに彼の私兵を束ねたディオニュシオス1世は、その娘を娶り、シュラクサイの僭主となった。トゥキュディデスは『戦史』で彼の活躍を詳しく記し、プラトンの『ティマイオス』『クリティアス』にも登場する。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物