HISTORICAL PERSON · 727年没

一行

唐の僧で天文学者。善無畏の経典翻訳に参加し、講義を『大日経疏』にまとめた真言八祖の一人。黄道游儀の製作や大規模な子午線測量を行い、その観測に基づいて『開元大衍暦』を作成した。

生涯
727年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(南楽県)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

一行は、唐代の僧であり、天文学者としても名高い人物である。俗名は張遂といい、一行阿闍梨とも呼ばれ、没後には大慧禅師の諡号を贈られた。弘道元年(683年)に生まれた。生地は邢州鉅鹿県とも、魏州繁水県(現在の河北省南楽)ともいわれる。曾祖父は唐初の功臣として知られる張公謹で、祖父は張大素、父は張懍という名門の出であった。幼いころから聡明で、経典や天文、暦学、哲学に早くから通じていたことが『旧唐書』に記されている。

出家は703年のことで、荊州玉泉寺の天台宗の僧、弘景のもとで行われたとされる。一方、21歳で両親を亡くして俗世を離れたともいわれる。その後は嵩山の普寂に禅を学び、北宗禅の系譜に連なった。「一行三昧」と呼ばれる修行に打ち込んだことが、一行という名の由来とされる。玉泉寺の恵真らから戒律も学び、戒律については要点をまとめた書を著したが、現在は失われている。当時の有力者であった武三思との関わりを避け、南方各地を巡って仏法を求めたとも伝えられる。天台山国清寺で開眼したともされ、禅、律、天台教学、密教、天文学、暦学と、学びの範囲はきわめて広かった。

玄宗に招かれて都へ上ったのは、715年ごろとも717年ともいわれる。以後は皇帝の相談相手として、政治や民の暮らしについてもしばしば意見を求められた。晩年は主に長安と洛陽で過ごし、宗教活動に力を注いだ。密教では善無畏の『大毘盧遮那成仏神変加持経』七巻の翻訳に参加した。ただし梵語の力は限られていたらしく、訳者というより記録と整理の役を担ったとみられている。その講義を基に注釈『大日経疏』二十巻をまとめ、善無畏の口述に自らの覚え書きや中国仏教の文献への言及を加えた。金剛智にも学び、陀羅尼や灌頂を受けたとされ、翻訳も助けた。真言八祖の一人に数えられ、密教が中国へ伝わる初期に大きな役割を果たした。

天文学では、それまでの麟徳暦が日食の予報に不備を抱えていたため、721年に玄宗の命で新しい暦の作成にあたった。梁令瓚とともに黄道游儀や水運渾象(水力で動く天球儀)を作って天体を観測し、南宮説らと北は鉄勒から南は交州に及ぶ大規模な子午線測量を行った。その結果、緯度差1度に当たる子午線の弧長を351里80歩(約123.7キロメートル)と算出した。こうした観測に基づいて『開元大衍暦』五十二巻を編んだ。水運渾象は、中国の天文時計の長い系譜の先駆けとされる。

727年、病に倒れ、回復を願う盛大な法要が営まれたが、皇帝の旅に同行する途中で亡くなった。示寂は開元15年10月8日(727年11月25日)である。玄宗は自ら墓碑の文を作り、大慧禅師の号を贈った。大衍暦は同じ年に完成し、729年に官暦として採用された。僧としても学者としても活躍したため、唐の後期には星占いや星の術に長けた人物として語られる伝説も生まれ、いくつかの占星書が彼の名で伝えられた。伝説も多く残る。日本の伝承では、一行の誕生にまつわる話として、母が身ごもったとき額に白い光の輪が現れ、それが生まれた子に移ったという。唐代の書物には、一行が「天師」という道教の称号を帯びた霊として現れる逸話が見える。『旧唐書』には、道士の尹崇から『太玄経』を借りて短い間に奥義を会得し、新たな著作を示して尹崇を驚かせた話もある。「天師」の逸話は『開天伝信記』『明皇雑録補遺』『酉陽雑俎』といった書物にも見える。

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