HISTORICAL PERSON · 紀元前48年没

宣帝 (漢)

前漢の第10代皇帝。武帝の曾孫で、民間に育ち霍光に擁立されて即位した。霍氏一族を退けて親政を行い、刑罰の緩和や減税、常平倉の設置を進め、匈奴の呼韓邪単于を降伏させた。前漢中興の祖とされる。

生涯
紀元前48年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 西安市)
出生地
斉 (黄巣)(長安)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

宣帝は、前漢の第10代皇帝である。武帝の曾孫にあたり、初めの名は劉病已、のちに詢と改めた。紀元前91年に生まれ、紀元前48年1月10日に没した。民間に育ってから皇帝になった数奇な生涯で知られ、逸話の多い人物である。後世には中国皇帝のなかでも名君の1人とされ、後漢の光武帝により前漢中興の祖として中宗の廟号を贈られた。

生まれた年に巫蠱の獄が起こり、曾祖母の衛皇后、祖父の戾太子劉拠、祖母の史氏、父の劉進、母の王翁須、兄と姉らが死に追い込まれ、あるいは処刑された。生後間もない病已も獄に入れられたが、その無実を知って哀れんだ獄吏の丙吉が、2人の女囚を乳母に選んで養わせた。紀元前87年の大赦で釈放されると、民間で育てられた。成長した病已は遊侠を好み、闘鶏や競馬に興じて、村里の悪事や役人の政治の良し悪しを知るようになった。掖庭令の張賀から学費を出してもらって学問も身につけ、掖庭での養育に改められてからは張賀が後見役となり、張安世の子の張彭祖が学友となった。

紀元前74年に昭帝が没し、従父の昌邑王劉賀がいったん即位したが、品行不良を理由に廃された。このとき、詩経・論語・孝経に通じ、質素倹約で仁愛深いと丙吉や霍光らに推薦され、上官皇太后の詔を受けて、まず陽武侯に封じられ、間もなく即位した。17歳であったとされる。この一連の動きは霍光が主導したもので、政権は引き続き大司馬大将軍の霍光に委ねられ、即位当初の宣帝は霍光の権威を絶えず気にしていたといわれる。

霍光が死ぬと、宣帝は肥大していた霍氏一族の権力、とくに軍の指揮権を徐々に取り上げ、外戚の許氏らの子弟に与えた。これに反発した霍光の遺児が反乱を計画すると、それを理由に霍氏一族を処刑した。ただし一族を滅ぼしたことは、亡き霍光への恩知らずだとして、司馬光らの歴史家から後に強く批判された。大司馬の霍禹は腰斬の刑となり、霍光の娘である皇后の霍氏も廃されて幽閉された。霍光の死から2年後に親政を始めた宣帝は、「信賞必罰」を旨として武帝期の苛酷な刑罰を改めて緩和し、減税や常平倉の設置、民への爵位の授与を行い、中央と地方の制度も改めた。牢内での獄吏の虐待を禁じ、政府専売で高かった塩の値を大幅に下げたのは、獄中に育ち民間で暮らした宣帝ならではの施策といえる。

外交では烏孫と連携して西域に進出し、匈奴を弱体化・分裂させ、紀元前51年には呼韓邪単于を降伏させた。こうした成果から、『漢書』宣帝紀で前漢中興の祖と評された。宣帝は臣下の意見や批判に耳を傾け、人を見る目にも優れていたと伝えられ、昭帝の治世とあわせて「昭宣中興」と呼ばれ、前漢の最盛期とみなす向きもある。一方、中書を通じた直接の上奏は宦官の権力を強め、元帝の代には宦官が横暴を極めた。庶民の暮らしに通じた現実主義者の宣帝は儒教を好まず、儒教に傾く皇太子劉奭とは折り合わず、廃太子も考えたが、劉驁が生まれたため見送った。儒者の登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされ、『漢書』や『十八史略』を通じて日本にも広く知られている。正室は許平君、継室は霍光の末娘の霍成君(のち廃された)で、長男の劉奭のほか、劉欽・劉囂・劉宇・劉竟の4人の男子と、館陶公主の劉施らの子女があった。紀元前48年1月10日、未央宮で崩御し、劉奭が元帝として即位した。元帝は儒者を重用し、のちに王莽の専制を招いて前漢滅亡の端緒を開いたとされる。

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