伝記
グレゴリウス2世は、第89代のローマ教皇である。生年は669年とされ、ローマの名門に生まれた。父はマルケルス、母はホネスタと伝わり、裕福な資産家の家系であったという。後世の年代記家は、のちのローマの名家サヴェッリ家の遠い祖先だと記したが、同時代の文書による裏づけはなく、信頼性は低いとされる。
若くして教皇庁に入り、セルギウス1世の時代に副助祭となり、のちに助祭として教会の図書を預かる司書を務めた。先代のコンスタンティヌスの下では教皇の秘書となり、711年には教皇に随行してコンスタンティノープルへ赴いた。ローマ側が受け入れなかった公会議の規定をめぐる難しい交渉は、実際にはグレゴリウスが担い、皇帝ユスティニアノス2世は、教皇庁が気に入らない決定を無視してよいと認めたという。715年4月9日にコンスタンティヌスが没すると、同年5月19日に教皇に選ばれ、司教に叙階された。
就任するとすぐ、ティブルティーナ門からローマの城壁の修復に着手した。しかし716年10月にテヴェレ川が氾濫し、水は8日間引かずに市街へ大きな被害を与え、作業は遅れた。教皇は連祷を命じて水の引くことを祈らせた。就任の最初の年には、コンスタンティノープル総主教ヨハネス6世から、単意論への支持を弁明する書簡が届いた。教皇は単意論に反対する伝統的なローマの立場を述べた書簡で応じた。716年にはバイエルン公テオドが来訪し、領内のキリスト教化について協議した。その結果、、現地に教会の組織を整え大司教を置くよう使節に指示した。726年には、修道士の道を望んだコルビニアヌスに、会議で訴えを審理したうえで、なお司教としてフライジングに赴くよう強いている。718年にはアングロサクソン人の宣教師ヴィンフリートがドイツでの布教を願い出たため、これを認め、ボニファティウスと改名させて719年5月に派遣した。722年に呼び戻して信仰の正統性を確かめたのち、同年11月に司教に任じ、再びドイツへ送り出している。このときボニファティウスは教皇のラテン語が聞き取りにくいと訴えたといい、俗ラテン語が各地のロマンス語へ分かれ始めていたことを示す出来事とされる。726年にはウェセックスの前王イネが、退位して巡礼のためローマを訪れた。
修道院の再興にも力を注いだ。自らの一族の邸宅を修道院に改め、聖エウスタキウスに捧げる教会も新たに建てた。718年にはランゴバルド人の攻撃で荒れていたモンテ・カッシーノを復興させた。721年には結婚をめぐる問題を正すためローマで教会会議を開いた。723年にはアクイレイアとグラードの両総大主教の争いが再燃し、教皇はランゴバルド王の求めでセレヌスにパリウムを授けたが、グラードの総大主教ドナトゥスの抗議を受け、双方を戒めている。
一方、ランゴバルド王リウトプランドによるイタリア侵入に対しては、王と交渉してローマへの略奪や侵略をやめさせた。東ローマ皇帝レオン3世がイタリアの支配地に重税を課そうとすると、これに強く反対して対立した。皇帝はその報復としてイコン崇敬を異端と見なし、726年に禁止令を出して聖像破壊運動を始め、教皇にも承認を迫った。グレゴリウスは北イタリアの有力者らに支えられてこれを拒み、対立を続けた。この抵抗は後に一連の反乱や分裂を招き、教皇が世俗の権力を持つ道を開いたとされる。731年2月11日、在位15年8か月余りで世を去った。
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