伝記
大伴旅人は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿であり歌人である。名は多比等、淡等とも記される。大納言・大伴安麻呂の長男で、母は巨勢人の娘の巨勢郎女とされる。享年67から逆算して、665年の生まれである。最終の官位は従二位・大納言であった。妻には大伴郎女のほかに丹比郎女がおり、子には家持、書持と、藤原継縄の妻となった娘の留女之女郎がいる。
和銅3年(710年)正月、元明天皇の朝賀に際して左将軍となり、副将軍の穂積老とともに騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。和銅4年(711年)に従四位下、和銅8年(715年)に従四位上・中務卿、養老2年(718年)に中納言、養老3年(719年)に正四位下と、元明朝から元正朝にかけて順調に昇進した。和銅7年(714年)には再び左将軍となっている。養老4年(720年)2月、大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した隼人の反乱の報告が届くと、3月4日に征隼人持節大将軍に任じられて鎮圧にあたった。5月頃に軍営を張り、6月中旬までには一定の成果を上げた。しかし8月に右大臣・藤原不比等が亡くなったため、旅人は京に戻るよう勅を受けた。隼人の平定は未了だったので、副将軍以下は引き続き駐屯を命じられた。翌養老5年(721年)に従三位、神亀元年(724年)に聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられ、神亀3年(726年)には山城国の事を知った。
神亀5年(728年)頃、旅人は大宰帥として妻の大伴郎女を伴い大宰府に赴任した。60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であった。この人事については、権力を握っていた左大臣・長屋王を排斥しようとする藤原四兄弟による一種の左遷とする説と、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待されたものとする説とがある。大宰府では山上憶良や満誓らと交流し、筑紫歌壇を形成した。赴任後まもなく妻を亡くし、のちには異母妹の坂上郎女が西下した。子の家持や書持、坂上郎女が九州に来た時期は、旅人の赴任と同時とする説と、天平2年(730年)6月に旅人が危篤になった時とする説とがある。大宰帥時代の旅人については、拠るべき史料が『万葉集』に限られるため、周辺の人間関係には推測の域を出ない部分が多い。
旅人が九州にいる間に、神亀6年(729年)の長屋王の変で長屋王が自殺し、天平2年(730年)9月には大納言・多治比池守が亡くなった。大官が相次いで没したため、旅人は太政官で臣下の最高位となり、同年11月に大納言に任じられて帰京した。翌天平3年(731年)正月に従二位へ昇ったが、まもなく病を得て、7月25日に薨去した。帰京後には、九州赴任中に亡くした妻を偲んで、二人で作った庭が小高く茂ったことを詠んだ歌が伝わる。
『万葉集』には旅人の歌が78首選ばれており、その多くは大宰帥となって以後の作である。「酒を讃むる歌十三首」を詠み、酒をこよなく愛した人物として知られる。大宰府の邸で催した梅花の宴では、「わが苑に梅の花散る」と、庭の梅の花の散るさまを天から流れ来る雪にたとえて詠んだ。『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集に13首が入集し、漢詩集『懐風藻』にも漢詩が採録されている。任地の大宰府から都を偲んで、大和もここも同じと思う、と詠んだ歌もある。歌風は大陸的な風雅の心と老荘的な自由思想を備えたものと位置づけられる。子の大伴家持は、のちに歌人として名を残した。