伝記
闕特勤は、東突厥第二可汗国の左賢王で、将軍・王子として知られる人物である。古テュルク語の「キュル・テギン」を漢字で写した名とされ、『新唐書』では「闕特勒」と誤記されている。阿史那骨咄禄の子で、毘伽可汗の弟にあたる。生まれは684年とされ、父は第二可汗国の創始者にあたり、兄の毘伽可汗は第4代の可汗、闕特勤は次男であった。父が亡くなったとき、闕特勤は7歳であったという。
默啜可汗の治世に、闕特勤は兄とともに武勇で名を上げた。イェニセイ・キルギス、テュルギシュ、カルルクを破り、可汗国の領土をサマルカンドの南の鉄門にまで広げたといい、九姓(トクズ・オグズ)の諸部族も服属させた。705年には兄の默棘連が率いる突厥軍が霊武に入って沙吒忠義を破り、闕特勤も一隊を率いて戦ったが、この戦いで馬を3頭失った。711年にはボルチュの戦いに加わり、テュルギシュにとって壊滅的な結果となった。712年、アラブの将軍クタイバ・イブン・ムスリムがサマルカンドを包囲すると、都市の君主の求めを受けた默啜可汗は、闕特勤に東突厥とタシケント、フェルガナの兵を合わせた軍を預けて救援に向かわせた。しかしクタイバに敗れて撤退し、ウマイヤ朝軍がサマルカンドに入って守備隊を置くことになった。713年には、兄や叔父とともにカルルク諸部族の制圧にも加わった。
開元4年(716年)、九姓遠征の最中に大可汗の默啜が戦死した。闕特勤は、息子の小可汗が伝統的な兄弟間の継承に背いて即位しようとしたのを認めず、旧部を集めて、この小可汗や弟たち、その他の親族をことごとく殺害した。そのうえで兄の默棘連を大可汗に推戴し、毘伽可汗とした。毘伽可汗は、国を得られたのは闕特勤の功だとして位を譲ろうとしたが、闕特勤が受け入れなかったため、闕特勤は左賢王となって兵馬を掌握した。このとき默啜の下にいた衙官は闕特勤にことごとく殺されたが、毘伽可汗の妻の父である暾欲谷だけは死を免れ、70歳を過ぎていながら突厥の人々に甚だ尊敬されて、毘伽可汗の参謀に起用された。開元13年(725年)、唐の玄宗の東方巡行に際して使者の袁振が突厥に来ると、毘伽可汗は妻や闕特勤、暾欲谷らと帳幕の中に丸くなって座り、宴席を整えて迎えた。
闕特勤の死は、732年とも、731年2月27日の突然の死ともされる。732年の死とする記録では、玄宗は金吾将軍の張去逸と都官郎中の呂向に勅書を持たせて弔問に遣わし、石碑を立てさせて、碑文を自ら書いた。さらに祠廟を建て、石像を作り、周囲の壁には闕特勤の戦陣のようすを描かせた。731年の死とする記録では、葬儀は同年11月1日に行われ、毘伽可汗は彼にイナンチュ・アパ・ヤルガン・タルカンという名を贈った。
墓はモンゴル北部オルホン川流域のホショ・ツァイダムにあり、近くに古代テュルク文字の碑文が立つ。碑文には「ウテュケン山よりいいところは決してない」とあり、闕特勤が母なる大地ウテュケンを称え、突厥の民に警世のことばを遺したことが刻まれている。闕特勤が永眠の地として選び、子孫に遺言を残す場所も、ウテュケンでなければならなかったのである。なお碑文に見えるタブガチとは、拓跋をテュルク語で発音したものとされ、中国を指す名である。毘伽可汗の碑文にも、兄の闕特勤のことが記されている。闕特勤の彫像の頭部は、翼を広げた鷲のような鳥を戴いており、1957年から1958年にかけてのチェコの考古学者ルミール・イシルの調査で見つかった。韓国のテレビドラマ『大祚栄』には、咸錫勲が演じる闕特勤が登場する。
同じ年に亡くなった人物
- アブド・アッ=ラフマーン・イブン・アブドゥッラーフ・アル=ガーフィキー (732年)
- Romuald II of Benevento (732年)
- Ata ibn Abi Rabah (732年)
- ゲルマノス1世 (732年)