HISTORICAL PERSON · 572年没

木汗可汗

突厥の可汗で乙息記可汗の弟。柔然を滅ぼし、エフタルや契丹を破り、契骨を併合して、版図を東は遼海、西はアラル海にまで広げた。北周と婚姻を結んで北斉を攻め、在位20年で没した。

生涯
572年没
死亡地
モンゴル国(アルハンガイ県 / オルド・バリク)
出生地
—
出典
世界地図
モンゴル国(アルハンガイ県)

伝記

木汗可汗は、突厥の第3代の可汗で、572年に没した。姓は阿史那氏、名は燕都という。木汗可汗は称号であり、俟斤(イルキン)は名ではなく官職名である。『隋書』では木杆可汗と表記される。初代の土門(ブミン)の子で、乙息記可汗の弟にあたり、生前に俟斤に任じられていたという。

553年に乙息記可汗が死ぬと、その子の摂図ではなく弟の燕都が立ち、木汗可汗と号した。即位すると、弟の阿史那庫頭を東方の小可汗に任じた。さらにただちに柔然を攻めて滅ぼし、柔然の可汗であった鄧叔子は西魏に亡命した。554年の年明けごろには、柔然の残党が北斉に降って保護を求めたが、北斉の文宣帝が自ら木汗可汗を攻めてその軍を退け、柔然の新しい可汗として庵羅辰を立てた。木汗可汗は西魏に鄧叔子の誅殺を求め、宇文泰がこれを許したため、鄧叔子は青門の外で殺された。

その後も遠征を重ねた。西では嚈噠(エフタル)を破り、東では契丹を敗走させ、北では契骨(キルギス)を併合した。これにより突厥の領域は、東は遼海以西、西は西海(アラル海)、南はゴビ砂漠以北、北はバイカル湖にまで及んだという。西方の嚈噠との戦いはブハラ付近で、ホスロー1世とともに行われたとされるが、この戦いは叔父の室点蜜が主に指揮したともいわれる。554年には吐谷渾を襲撃して破り、556年には西魏と組んで吐谷渾に攻め入った。このとき吐谷渾王慕容夸呂の妻子と財宝が奪われたが、突厥軍の撤退後に王は故地へ戻ったという。木汗可汗は、同行した西魏の将軍史寧に奴隷100人、馬500頭、羊1万頭を贈った。この拡大は、アヴァールを西へ押しやり、東ローマ帝国やササン朝、さらにドナウ川方面にまで動きを及ぼしたとされる。

中国の王朝との関係では、556年に宇文泰へ娘を嫁がせようとしたが、宇文泰が没したため実現しなかった。558年に北周へ使者を送って方物を献じ、561年にも朝貢した。娘を北周の武帝に嫁がせる話があった一方、北斉の武成帝からも求婚されて悩んだが、北周の武帝が使者を送って熱心に求婚したため、北周との婚姻に決めた。563年の秋に北周は突厥と北斉に対抗する同盟を結び、武帝が木汗可汗の娘を娶ることも約された。同年、北周は楊忠に兵1万を率いさせて北斉を討ち、木汗可汗も騎馬10万で合流して、564年1月に晋陽の武成帝を攻めたが、勝てなかった。この年の北周と突厥の連合軍は、北は北斉の副都の晋陽、南は平陽を攻める二方面作戦をとったともされる。木汗可汗は兵を出して大規模な略奪を行い、引き揚げたという。565年の春、武帝が宇文純らを迎えに遣わすと、木汗可汗は約束に背いて宇文純らを留め置いた。しかし568年春に大嵐で本拠が大きな被害を受けると、これを神の怒りの表れと受け取り、宇文純と娘を北周に返した。武帝は娘を自ら迎え、皇后に立てた。567年と569年にも北周へ使者を送り、569年には馬を献上している。

木汗可汗は在位20年で572年に没し、弟の他鉢可汗が跡を継いだ。顔が大きくて赤く、眼は瑠璃色をしており、性格は剛暴で勇ましく、知恵があったと伝えられる。その治世にはソグド文化の影響が最も強まり、ソグド語とソグド文字が統治に用いられた。また仏教に友好的で、突厥に仏教を初めて伝えた人物と見なされ、長安に突厥の仏教寺院の建立を後押ししたともいわれる。ただし、自身が仏教に帰依したかどうかは分かっていない。

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