伝記
聖徳王は、新羅の第33代の王である。在位は702年から737年までで、姓は金、諱は興光という。もとの名は隆基だったが、唐の玄宗と同名であったため、712年に唐の勅命で改名させられた。第31代の神文王の第二子で、母は一吉飡の金欽運の娘である神穆王后。先代の孝昭王は同母兄にあたり、孝昭王が子を残さないまま702年7月に亡くなったため、王位に就いた。家族については、704年に金元泰の娘と結婚し、その子の重慶は715年に太子とされた。しかし716年に王妃は宮中から退けられ、重慶も翌717年に亡くなった。720年には、伊飡の金順元の娘を新たに王妃に迎え、のちに王となる孝成王と景徳王らが生まれた。王妃の名や出自については、記述に違いがある。
先王の死に際して、唐の武則天から弔慰の使者を受け、聖徳王は先王の爵号をすべて引き継いで、輔国大将軍、行左豹韜尉大将軍、鶏林州都督、新羅王に冊封された。玄宗の即位後の713年10月には、さらに楽浪郡公などを含む高い称号に進められた。唐とは頻繁に朝貢や賀正の使者を送り、王子や王弟を唐皇帝の宿衛や国学に入らせるなどして親密な関係を保ち、文物の導入にも努めた。704年3月の『最勝王経』や、717年9月の「十哲七十二弟子図」が、この王の代にもたらされたものとして記録に残る。唐との関係は、長く続いた対立ののちに大きく改善されたと評される。
北では、渤海の勢力が強まっていた。721年、聖徳王は北の国境地帯に長城を築かせ、渤海への備えとした。この長城の跡は、いまも北朝鮮の咸鏡南道に見られるという。渤海が唐の登州に攻め込むと、733年7月に唐から開府儀同三司・寧海軍使の称号を受け、勅によって渤海の南部を攻めた。しかし、大雪が降り、進路も狭かったため、新羅軍の大半が死んで、功績のないまま退却した。それでも、渤海に対抗するという利害が唐と一致していたため、両国の親密な関係は固まり、735年には唐から、大同江以南の領有を正式に認められた。日本に対しては警戒を強め、722年に、都の慶州の近くに大規模な山城である毛伐郡城(関門城ともいう)を築いて、日本の賊の侵入を防ぐ構えをとった。この築造には4万人近くが動員され、周囲は約12キロに及んだとされる。731年には日本の戦船300艘が東の海岸に攻め寄せたが、これを撃破した。
内政では、713年に礼部の下に典祀署を設け、714年には詳文司を通文博士に改め、717年に医博士・算博士を置くなど、中央の官僚機構を細かく整えた。718年には漏刻典が置かれ、水時計がつくられたと記される。722年には、成人の農民にはじめて丁田を与えたとされ、農民の生活の安定と王権の強化をねらったものと解されている。728年には、貴族の代表である上大等の裴賦の退任を許し、これは上大等の最初の解任例となった。705年と706年には不作が続き、餓死する民が多く出たため、王は大いに施しを行った。在位中には、しばしば天変地異があった。
737年2月に没したとされる。ただし、唐の記録では737年2月に後継者を冊立する使者が送られたとあり、736年末に亡くなったとみる説もある。聖徳と諡され、移車寺の南に葬られた。王陵は慶州市朝陽洞の史跡第28号に比定されている。死後、唐からは鴻臚少卿・太子太保の官爵を追贈された。跡は子の孝成王が継ぎ、のちに景徳王も王位に就いた。
同じ年に亡くなった人物
- オルソ・イパート (737年)
- 藤原宇合 (737年没)
- ペラーヨ (737年没)
- テウデリク4世 (フランク王) (737年没)
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