伝記
ペラーヨは、西ゴート王国の貴族の出とされ、718年から737年まで在位した初代アストゥリアス王である。スペイン語圏では敬称を付けてドン・ペラーヨと呼ばれることが多い。生年は分かっていない。
出自については史料によって記述が分かれ、今も議論がある。父はアストゥリアス地方を支配した貴族ファフィラ(ファビラ)であったといわれる。ヴィギラ写本によれば、ファフィラはガラエキアの公であったが、西ゴート王ウィティザに殺害されたという。アルフォンソ3世年代記では、ペラーヨは西ゴート王キンダスウィントの孫とされ、父はウィティザの指示でコルドバに幽閉されたと記される。これらの年代記はいずれもアルフォンソ3世の宮廷で書かれたもので、西ゴート王国とアストゥリアス王国が連続していることを示す意図があったとされる。現代の歴史学はこうした主張を、西ゴートの正統を受け継ぐとする考え方の表れと見ており、事実かどうかにかかわらず、王の威信を高める政治的な意味を持っていたとされる。
背景として、714年にムサの遠征隊がアストゥリアスに至ると、ベルベル人の指揮官ムヌーサがヒホンに守備隊を置き、半島北半の軍と統治を任された。年代記の記述はそれぞれ異なる。880年頃に書かれたアルベルダ年代記では、ペラーヨはウィティザに追われてトレドを去り、アストゥリアスへ逃れた西ゴートの貴族とされる。イスラム勢力の侵入が起こると、土地の人々の会議で首長に選ばれ、ヒホンに置かれていたイスラム側の守備隊を排除して、領内の統治と徴税を始めたという。ロテンセ年代記には、ウィティザと、のちの王ロドリゴに仕えた近侍であったと記され、妹とともにイスラム支配から逃れた物語が語られる。ヒホンの総督ムヌーサが妹を見初めたため、ペラーヨはコルドバへ送られたが、717年に脱出し、アストゥリアスの人々の間に身を寄せて、のちに君主に推されたという。
711年のイスラム勢力のイベリア半島侵攻でグアダレーテ河畔の戦いに敗れた西ゴート王国は崩壊し、ペラーヨはアストゥリアス地方に拠った。718年ごろ、アストゥリアスの人々に首長として選ばれ、カンガス・デ・オニスを中心とする小さな領域で権威を固めた。722年にはコバドンガの戦いでイスラム軍を破ったとされ、この戦いは伝統的にアストゥリアス王国の起点、さらにはイベリア半島のレコンキスタの出発点と位置づけられている。このためペラーヨはレコンキスタの開始者とされる。
伝承では、ペラーヨは712年にテデハ城で、のちに縁戚となるカンタブリア公ペドロと行動をともにしたとされる。アマヤ陥落後に西ゴート人の避難民が退いた拠点とされ、トレドからの逃亡者が王家の墓所を近くの礼拝堂へ移したとも語られる。両者は726年8月9日にもイスラム軍を破ったと伝わる。これは土地に伝わる伝承の語りである。
737年に没し、息子のファビラが跡を継いだ。娘のエルメシンダは、のちにアストゥリアス王となるアルフォンソ1世と結婚し、王朝の継続に結びついた。ペラーヨはアストゥリアス王家の伝統の創始者とされ、その系統はレオン王国とカスティーリャ王国を経て、スペイン王国へつながると見なされている。
同じ年に亡くなった人物
- 聖徳王 (737年没)
- テウデリク4世 (フランク王) (737年没)
- オルソ・イパート (737年)
- 藤原宇合 (737年没)
同じ地域に関係する人物
- Rosario de Acuna (1923年没)
- ベニート・ヘロニモ・フェイホー (1764年没)
- レオポルド・アラス (1901年没)
- エルビラ・ガルシア・デ・カスティーリャ (1017年没)
- ファビラ (739年没)