伝記
ジェームズ・マディソン・ジュニアは、アメリカ合衆国の政治家であり政治学者で、第4代大統領(1809年-1817年)である。1751年3月16日に生まれ、1836年6月28日に没した。ジョン・ジェイやアレクサンダー・ハミルトンとともに『ザ・フェデラリスト』を共同執筆し、アメリカ合衆国憲法の父と見なされる。対外宣戦布告をした初の大統領であり、戦災で首都から避難した唯一の大統領でもある。
バージニア州キング・ジョージ郡ポートコンウェイで、12人兄弟の長子として生まれた。父はオレンジ郡にタバコのプランテーションを持つ大佐で、郡で最大の土地所有者の一人となった。母はポートコンウェイの著名な農園主の娘であった。11歳から16歳まで、スコットランド出身の教師ドナルド・ロバートソンに学び、数学、地理、現代語と古典語を修め、ラテン語を流暢に話した。1767年に牧師の下でカレッジ入学のための学業を始め、ウィリアムズバーグの気候が繊細な健康に合わないことを恐れて、ウィリアム・アンド・メアリー大学を選ばず、1769年にプリンストン大学に入学した。ラテン語、ギリシア語、科学、数学、修辞学、哲学を学び、1771年に卒業した。卒業後もプリンストンに残り、ウィザースプーン学長の下でヘブライ語と政治学を学んだ。1772年にモントピリアに戻り、法律を散発的に勉強したが、法廷弁護士にはならなかった。
若き弁護士として、免許を受けずに説教をして逮捕されたバプテストの説教師たちを弁護し、バージニアでの信教の自由を憲法で保障するために動いた。1776年から1779年にバージニア邦議会議員を務め、ジェファーソンの弟子として知られるようになった。バージニア信教の自由法の起草を手伝い、名声を得た。1780年から1783年まで大陸会議の代表となり、議会での連衡形成の達人と見なされた。バージニアが北西部領土の領有権主張を放棄して連合会議に渡すよう、説得もした。連合規約の脆弱さに気づき、新しい憲法の制定を強く提唱した。1787年のフィラデルフィア憲法制定会議では、マディソンが起草したバージニア・プランと三権分立による連邦制度が、憲法の基礎となった。はにかみやだったが、発言の多い代議員の一人だった。憲法の批准を促すため、ハミルトンやジェイと『ザ・フェデラリスト』を書き、第10編では、多くの異なる利益と派閥がある大きな国のほうが、共和制の価値を支えられると説いた。1788年にはバージニアの批准会議で、パトリック・ヘンリーらと議論を交わし、批准への戦いを率いた。本人は、憲法は多くの頭脳と手による作品であり、功績を主張しないと、憲法の父という呼び方に抗議した。
はじめ権利の具体的条項は不要と考えたが、反連邦党が批准の交換条件として要求し、下院議員として第1会期から第4会期まで指導者となり、最初の修正10か条を起草した。このため権利章典の父とも呼ばれる。1791年にハミルトンと袂を分かち、ジェファーソンと共和党(のち民主共和党)を創設し、1798年にはジェファーソンと、匿名でケンタッキー州とバージニア州の決議案を書いた。ジェファーソン政権の国務長官としてルイジアナ買収を監督し、国土を2倍にした。大統領としてはイギリスに対する米英戦争を率いた。
1794年9月15日、未亡人のドリー・ペイン・トッドと結婚し、彼女の連れ子を養子にした。ドリーはクエーカーを追放されたが、夫婦は幸せな結婚生活を送り、ドリーの社交はマディソンの人気を支えた。身長は約163センチで、歴代大統領で最も小柄だった。
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