HISTORICAL PERSON · 740年没

孟浩然

唐代盛唐の代表的な詩人。襄陽の出身で、科挙に及第せず仕官はかなわなかった。自然を題材にした詩に優れ、王維と「王孟」と並称され、李白とも親しかった。日本では五言絶句「春暁」が特に有名。

生涯
740年没
死亡地
中華人民共和国(湖北省 / 襄陽市)
出生地
中華人民共和国(襄陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

孟浩然は、中国唐代の盛唐を代表する詩人である。689年(691年とする説もある)に襄州襄陽県、現在の湖北省襄陽市襄州区に生まれ、740年に没した。一説には名は浩、字が浩然だという。王維や李白、杜甫より少し年長の同時代人で、生涯の大半を故郷の襄陽とその周辺で隠者のように暮らし、土地の風景や風土に着想を得た詩をつくった。

若い頃から節義を重んじ、人の患難を救うなどの行いがあったという。各地を放浪し、義侠の振る舞いで人々と交わった。襄陽の鹿門山に隠棲したこともある。この山は後漢の龐徳公や、のちの皮日休にゆかりの地である。政治の道に進む望みも若い頃には抱いていたが、ついに官職を得ることはなかった。玄宗の世になって長安に赴き仕官しようとしたものの、科挙に及第していないためかなわなかった。

その間には、いくつかの逸話が伝わる。孟浩然を気に入った韓朝宗との約束を違えて、朝廷への推薦を駄目にしたという。『新唐書』によれば、親友の王維の推薦で玄宗に謁見し、自作の詩を朗誦したところ、その中の「才なければ明主も棄つ」という一句が玄宗を怒らせた。玄宗はこれを、もっと早く登用しなかったことへの皮肉な不満と受け取り、孟浩然は宮中から退けられたという。こうした振る舞いから、立身出世には関心が薄かったようにもみえる。唯一官職に近い立場を得たのは、死の3年前に張九齢の幕僚となったときだが、その超然とした誇り高さのために、1年足らずで辞したとされる。長安へは728年にごく短期間行き、王維のもてなしを受けた。

詩は広く知れ渡り、王維・李白・張九齢らと親しく交際した。李白の孟浩然に宛てた詩は唐詩三百首にも二首収められ、一首は賛辞、一首は送別の詩である。李白には「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」という作品がある。740年、背中にできものがあって具合の悪かった孟浩然は、訪ねてきた王昌齢を歓待するあまり容態を悪化させ、亡くなった。

作品は自然を題材にしたものが評価され、詩の多くは故郷の風景や歴史、伝説を主題とし、一族の拠点であった南山や、一時俗世を離れて暮らした鹿門山などが特に知られる。人生の愁いと超俗とを行き来する心情が詠みこまれている。詩の言葉は日常の会話のように平易でありながら、細やかな工夫が凝らされており、ありふれた日々の経験を長く残る詩に変える技量に、批評家は価値を見いだしてきた。渡し場で待つ村人や漁師、姿の見えない山中の隠者といった、前景の細部と人の暮らしに目を向ける点が特徴とされる。王維とは友情を結び、ともに山水詩人として名高いことから「王孟」と並称された。杜甫は孟浩然の詩を鮑照や謝霊運より優れたものとし、李白はその高潔な人柄と独立の気風を称えた。宋代の批評家は、創意には優れるが題材の深さと広がりに欠けるとみて、蘇軾は腕の確かな酒造りに材料が足りないようなものと評した。20世紀の学者聞一多は、隠者としての静かな暮らしぶりの率直な表現だと称えた。五言絶句「春暁」は、「春眠暁を覚えず」で始まる春の朝の詩で、日本でも特に有名で、中国でも子ども向けの入門詩集『千家詩』の巻頭に置かれた。清代の『唐詩三百首』には15首が収められ、数は杜甫・李白・王維・李商隠に次ぐ第5位である。その山水詩の主題と作風は、王維をはじめとする後の世代の詩人が従う規範の形成を助けた。詩集に『孟浩然集』がある。

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