HISTORICAL PERSON · 740年没

ザイド・ブン・アリー

アリー・ザイヌルアービディーンの子で、740年にクーファでウマイヤ朝に蜂起した。蜂起は数日で鎮圧されて処刑されたが、支持者はザイド派を形成し、のちイエメンなどで支持を広げた。

生涯
740年没
死亡地
イラク共和国(ナジャフ県 / クーファ)
出生地
サウジアラビア王国(マディーナ)
出典
世界地図
イラク共和国(ナジャフ県)

伝記

ザイド・ブン・アリーは、8世紀前半にクーファでウマイヤ朝に対する蜂起を率いた人物である。シーア派第4代イマームとされるアリー・ザイヌルアービディーンの息子で、アリーの曾孫にあたる。蜂起は失敗して処刑されたが、この出来事はシーア派内部の分岐に深く関わり、ザイドを支持する人々はのちにザイド派を形成した。

マディーナで生まれた。生年ははっきりせず、殺されたとき42歳だったという記録から698年から699年ごろと推定する説と、息子のフサインが伝える694年から695年ごろとする説があり、後者のほうが信頼できるとする研究者もいる。後者をとると、異母兄のムハンマド・バーキルより18歳若い。母の名も定まらず、シンド出身の女性で、ジャイダ・アル=スィンディーの名で知られたとする伝えもある。預言者の家の一員として敬われ、宗教学に通じた雄弁な学者であった。禁欲的なウマイヤ朝のカリフ、ウマル・ブン・アブドゥルアズィーズがマディーナ総督だった頃からの交友があり、彼がカリフとなってからも書簡で助言を送ったという。兄のバーキルがザイドの問いへの答えに感嘆したという逸話や、甥のジャアファル・サーディクがザイドを、クルアーンによく通じ、親族に最も情の深い人だったと語ったという伝えも残る。

ザイドがカリフのヒシャーム・ブン・アブドゥルマリクと対面したときの話も伝わる。ヒシャームは、カリフの地位を望んでいるそうだが、奴隷女の息子であるお前には決して得られないと言った。ザイドは、奴隷女の子であったイシュマエルを神が選んだことを挙げて答えたという。712年から713年に父が亡くなると、兄のムハンマド・バーキルが家長となり、シーア派全体のイマームとして広く認められた。一方、イブン・ハルドゥーンによれば、ザイドの信奉者はザイドがイマームを継いだと公に宣言し、兄弟は対立した。多くの者がザイドを拒んだため、ザイドはアブー・バクルとウマルの継承を正当と認める宣言をしたが、厳格なシーア派はこれを退けた。

そのころのクーファでは、ムフタールの乱の鎮圧後もカイサーン派の諸派が活動しており、親アリー勢力のあいだではハサン家の男子を後継者に推す声が高まっていた。ザイドは訴訟のためにこの町を訪れ、住民の一部の支持を得て、ヒジュラ暦122年サファル月、西暦740年に蜂起した。しかし計画はウマイヤ朝のイラク総督に事前に察知され、蜂起は数日で鎮圧された。ザイドは捕らえられて処刑され、遺体は掘り起こされて首と胴を切り離され、磔にされたという。息子のヤフヤーがその遺志を継いだとされる。十二イマーム派の伝えでは、出発前に相談を受けたジャアファルは、クーファで殺され磔にされても、それはあなたの問題だと答えたという。

ザイドの呼びかけに応じず拒否した者たちは「ラーフィダ」(拒否する者)と呼ばれ、のちにイマーム派の他称となった。ザイドの死は、アッバース朝の革命につながる復讐の訴えの一因になったともいわれる。ザイド派は彼をイマーム・ザイドと呼び、ハディース集『集成』、『クルアーンの驚異に対する注解』、巡礼の作法を説いた書、書簡集などを遺産とする。スンナ派の法学者アブー・ハニーファは、同時代にザイドほど学識があり、頭の回転が速く、弁の立つ人物は見なかったと語ったという。ただし、法学書の著者がザイド自身かどうかには異論がある。3人の女性と結婚し、4人の男子をもうけたとされる。孫のアフマドはザイド派のハディースを伝える学者として知られる。

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