伝記
カール・マルテルは、メロヴィング朝フランク王国の宮宰である。フランス語ではシャルル・マルテルと呼ばれ、生年は688年頃、没年は741年10月22日とされる。マルテルは直訳すると鉄鎚の意だが、近年の通説では、その由来を単なる固有名詞と考えている。トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の進撃を食い止めた人物として名高い。
アウストラシアの宮宰ピピン2世の庶子として生まれ、母はピピンの側室で、マーストリヒトの豪族の娘アルパイダであった。カロリング家は代々、宮宰としてメロヴィング朝宮廷の実権を握っていた。714年に父が死ぬと、正妻プレクトルードが孫のテウドアルドの将来を守ろうと、庶子であるカールを退けてケルンに幽閉した。のちに脱出して、アウストラシアの貴族から宮宰に推されたという。ネウストリアは、これに対抗してラガンフリドを宮宰に立て、フリース人の王ラドボドと結んでアウストラシアに攻め込んだ。ケルン近郊の戦いでカールは敗れ、これが生涯ただ一度の敗北だったとされる。しかしその後、帰国途上の敵軍をアンブレーヴの戦いで奇襲し、撤退を装って誘い込む戦法で打ち破った。やがてラガンフリドを破り、プレクトルードから支配権を奪って、718年にフランク王国全体の宮宰になったとされる。
その後は外征を重ね、北辺のフリースラントやウェストファリアのサクソン人を攻め、ラガンフリドが指揮したネウストリアの反乱も抑えた。721年に国王キルペリク2世が亡くなり、テウデリク4世が継いだが、カールの権力基盤は強まる一方だった。同年、トゥールーズでウマイヤ軍を破ったものの、現在のフランス南部はウマイヤ朝の支配下にあった。732年、イベリア総督アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーの軍がボルドーを略奪してロワール流域のトゥールに迫ると、カールはこれを迎え撃った。両軍はポワティエ近郊で激突し、総督が戦死したウマイヤ軍は退却した。この結果、イスラム勢力の西ヨーロッパへの侵攻は食い止められ、のちのレコンキスタの基盤が作られたとされる。歴史家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で、カールを中世最高の君主と称えた。
勝利の後も遠征を続け、ブルゴーニュにブルグント王国を復活させ、プロヴァンスとセプティマニアへ攻め入ったが、イスラム側の抵抗も根強く、攻防は一進一退であった。737年にテウデリク4世が後継者を指名しないまま亡くなると王位は空白となったが、実権は完全にカールの手中にあった。738年にはボニファティウスをマインツ大司教に任じた。739年にはローマ教皇グレゴリウス3世から、ローマを脅かすランゴバルド王国の討伐を頼まれたが、カールはこれを断り、ランゴバルドとの同盟を保った。教皇の依頼は、彼の死後に果たされた。
741年、クワルジー・スー・ロワーズで死去し、遺体はパリ近郊のサン・ドニ修道院に葬られた。カールは3人の女性から6人の息子をもうけたとされ、妻クロドトルードとの間にカールマンとピピン3世が生まれた。役職は慣習に従って息子たちに分割して相続され、その中から小ピピンが兄カールマンや異母弟グリフォを抑えて王国全体を率い、751年に王位に就いてカロリング朝を開いた。
同じ年に亡くなった人物
- テウドアルド (741年没)
- グレゴリウス3世 (ローマ教皇) (741年没)
- レオーン3世 (741年没)
同じ地域に関係する人物
- ロテール (西フランク王) (986年没)
- サン=カンタンのデュドン (1026年没)
- ロベール1世 (西フランク王) (923年没)
- カールマン (フランク王) (771年没)
- マリー・ド・リュクサンブール=サン=ポル (1547年没)