伝記
グレゴリウス3世は、第90代のローマ教皇である。在位は731年から没年の741年11月28日までで、出身はシリアであった。父はヨハネスというシリア系のキリスト教徒と伝わる。教皇就任前は司祭を務めていた。先代のグレゴリウス2世が731年に死去すると、民衆の歓呼によって教皇に選ばれたと伝えられ、東ローマ帝国のラヴェンナ総督の承認を得たのち、3月18日に司教に叙階された。教皇選出に際して総督の承認を求めた最後の教皇であったとされる。
就任の直後から、皇帝レオン3世に対し、聖像破壊の立場を和らげるよう訴えた。ところが教皇の使者が皇帝の命で逮捕されたため、731年11月に教会会議を開き、聖像破壊を全面的に断罪した。皇帝は教皇を従わせようと艦隊を送ったが、アドリア海で難破した。皇帝はさらにシチリアとカラブリアの教皇領を没収し、イリュリクムの教会の管轄をコンスタンティノープル総主教に移した。ナポリ公に教皇領の没収を命じる勅令を実行させようとした試みは、公が教皇の立場を支持したために失敗したという。
教皇自身は、聖像と聖遺物への崇敬を強調して、聖像破壊への反対を示した。多くの教会を修復し、イエス、聖母マリア、聖人たちの像で飾らせ、サン・ピエトロ大聖堂には、総督エウティキウスから贈られた6本の縞瑪瑙と大理石の円柱の間に、聖障を築かせた。聖遺物を納める礼拝堂も新設し、732年に会議を開いて、そこでの祈りとミサの定めを整えた。修道生活を熱心に支え、聖クリュソゴヌス修道院を創設し、貧しい人々を養うため聖セルギウスと聖バッコスの施療院を再建した。また、グラードとアクイレイアの両総大主教の管轄争いを裁き、731年にはカンタベリー大司教にタトウィンを認めた。735年にはノーサンブリア王ケオルウルフの願いを受け入れ、ヨークの司教エグバートを大司教に昇格させた。
北ヨーロッパの宣教にも力を入れた。732年にボニファティウスをドイツの大司教に引き上げ、737年に彼がローマを訪れると教皇特使に任じ、ドイツの司教区の再編を命じた。732年には、異教の祝宴と結びつくとして、馬肉を食べることを禁じた。
一方、ランゴバルド人の脅威は絶えなかった。教皇は730年代の初めにアウレリアヌス城壁の修復を終え、ランゴバルドに奪われていたガッレーゼの要塞を買い戻した。732年にはランゴバルド王リウトプランドの侵略が再開され、ラヴェンナが占領されるなどして、教皇の存在そのものが危機的な状況にあった。グレゴリウスはフランク王国に援軍を求めたが、当時のフランク王国はランゴバルドと同盟してイスラム勢力と戦っており、断られた。737年にリウトプランドが戻るとラヴェンナ総督領への攻撃が再び強まり、738年頃にラヴェンナが陥落すると、教皇は聖像をめぐる対立にもかかわらず、東ローマ帝国による奪回を支援した。同じ年、王はスポレートとベネヴェントの公にローマ公領周辺の荒廃を命じたが、両公は教皇との条約を理由に拒んだ。教皇はスポレート公トラシムンドの反乱を後押ししたとされる。それでも事態の行き詰まりを打開できないまま、741年11月28日に在位10年8か月余りで世を去った。これ以降、ヨーロッパ以外の出身の教皇は、2013年に就任したフランシスコまで、約1270年間現れなかった。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- ベネディクトゥス1世 (ローマ教皇) (579年没)
- イグナチオ・デ・ロヨラ (1556年没)
- パオロ・ジョッベ (1972年没)
- セウェリヌス (ローマ教皇) (640年没)
- ロベルト・ベラルミーノ (1621年没)