伝記
レオーン3世は、685年頃に生まれ741年6月18日に没した東ローマ帝国イサウリア朝の初代皇帝で、在位は717年から741年である。渾名の「イサウロス」から小アジア南東部イサウリア地方の出身とされてきたが、これは9世紀に生じた誤伝とされ、実際にはシリアとキリキアの境にあるゲルマニケイア(現カフラマンマラシュ)の出身である。もとの名はコノンで、青年期にユスティニアノス2世の植民政策でトラキアへ移住した。初期の経歴には不明な点が多い。
年代記作者テオファネスによれば、失脚していたユスティニアノス2世が705年にコンスタンティノポリスを目指した際に帝位奪還へ協力して取り立てられたが、のちに疑いを受けてコーカサス地方へ左遷されたという。別の年代記作者ゲオルギオスは、南イタリアへ艦隊司令官として派遣されたと伝える。どちらを採るかは研究上も揺れており、コーカサスから戻ったのちに南イタリアへ送られたのだろうという推測もある。経歴がはっきりするのは、アナスタシオス2世からテマ・アナトリコンの長官に任じられて以降である。
当時はウマイヤ朝の軍が小アジアに侵入しており、司令官マスラマがアナトリコンの中心都市アモリオンに迫っていた。コノンは計略によってこの軍を一旦退かせ、テマ・アルメニアコンの長官で盟友のアルタヴァスドスとともに首都へ向かった。クリュソポリスに達すると、総主教ゲルマノス1世らがテオドシオス3世を退位させ、コノンはレオーン3世として即位した。テオドシオスは修道士となり、アルタヴァスドスはコノンの娘アンナと婚約していたとされる。
即位して間もなく、マスラマの軍がコンスタンティノポリスに到達し、8月15日から第二次包囲戦が始まった。レオーンは金角湾の入り口を鎖で封鎖し、時には自ら艦隊を指揮してイスラーム側の補給艦隊を破った。補給が滞った敵軍は窮乏し、要請に応じて南下したブルガリア軍にも悩まされ、718年8月15日に撤退を始めた。以後、後代のオスマン帝国の時代まで、イスラーム軍に首都を包囲されることはなかった。
その後の内政では、シチリアの反乱や719年のアナスタシオス2世の陰謀を抑え、政権は次第に安定した。アルタヴァスドスを、陰謀の温床となっていたテマ・オプシキオンの長官に据えて小アジアのテマを掌握し、同じく陰謀の温床だった帝国艦隊を分割して小アジア南部にテマ・キビュライオタイを置いた。740年にはアクロイノンの戦いでウマイヤ朝軍に決定的な勝利を収め、以後その小アジア侵攻は激減した。一方イタリアでは、重税もあって統治力が揺らぎ、732年頃には一時ラヴェンナがランゴバルド王リュートプランドに制圧された。法制では、『ローマ法大全』の要約・改訂版である法律集『エクロゲー』を741年(あるいは726年)に発行した。
726年には、イコン崇敬を異端と見なして禁止令を出し、聖像破壊運動を始めて厳しい弾圧を行った。730年には総主教ゲルマノス1世が罷免され、崇敬を続けて拷問を受けたダマスコのイオアンらは、のちに正教会で聖人とされた。この問題を機にローマ教皇との対立が深まり、東西教会の隔たりは広がった。運動は787年の第2ニカイア公会議で聖像擁護が認められて決着したが、両教会の教義上の差異は、のちにフィリオクェ問題をきっかけに再び表面化した。
同じ年に亡くなった人物
- テウドアルド (741年没)
- グレゴリウス3世 (ローマ教皇) (741年没)
- カール・マルテル (741年没)
同じ地域に関係する人物
- ロクセラーナ (1558年没)
- Nimet Nevzad Hanim (1992年没)
- フルス・ベーチェット (1947年没)
- Thekla (900年没)
- ファフリ・コルテュルク (1987年没)