伝記
ジャコモ・レオパルディは、イタリアの詩人で、随筆家、哲学者、文献学者である。1798年6月29日に生まれ、1837年6月14日に没した。19世紀イタリア最大の詩人とされ、イタリア・ロマン主義を代表する一人であり、存在と人間の条件に対する絶えざる省察によって、深い哲学者との評価も得た。
当時教皇領だったマルケ州のレカナーティで、地方貴族(伯爵)の家に生まれた。父モナルドは文学愛好家で教養があったが、政治的には保守的な人物であり、母アデライーデは冷たく権威主義的で、夫の賭け事で傷んだ家の財産を立て直すことに執着していた。厳格な宗教と節約の規律が支配する家であったが、幼少期は弟カルロや妹パオリーナと楽しく過ごし、その思い出がのちに作品の主要なテーマとなった。家の伝統から家庭内で神父による教育を受け、膨大な書籍を収めた父の図書館で古典的な教育を受けた。広範な読書で様々な分野の知識を得て、特に古典文学の教養を深め、ラテン語に加えてギリシア語やヘブライ語にも精通するようになった。12歳から19歳まで絶えず勉強したが、その連続は、もともと脆弱だった体質を損ない、病気はおそらく脊椎カリエスで、若者の最も素朴な楽しみすら奪った。生まれつき病弱だったために、青年期のほとんどをレカナーティで過ごし、閉鎖的で孤独な環境のなか、14歳になるころから詩を作り始めた。
1817年に古典学者ピエトロ・ジョルダーニが邸を訪れ、生涯の友となった。レカナーティでの生活は重荷になり、1818年に脱出を試みたが、父に連れ戻された。以後、父子の関係は悪化し、家族に絶えず監視された。1822年、叔父のいるローマへ行き、ローマの腐敗や堕落した雰囲気と教会の偽善に深く失望した。タッソの墓や、当時活躍していた詩人フォスコロを訪れもした。しかし、想像で創り上げた理想のローマと現実との差は大きく、この体験が創作や価値観に大きく関わった。彼の代名詞である悲観主義の傾向は、1824年に出版された最初の詩集にもすでに現れていた。
1824年、書店主ステッラにミラノへ招かれ、いくつかの作品を依頼されて以降、ボローニャやフィレンツェなどを巡るようになり、詩人としての名声も知識人を中心に高まった。慢性的な体調不良の中で旺盛な創作欲を見せ、詩作のみならず、古典的素養に基づく哲学的散文『道徳小品集』なども著した。1827年にフィレンツェでマンゾーニに会ったが、意見は合わなかった。1828年にはプロイセン大使からボンかベルリンでの教授職を申し入れられたが、健康上の理由で断った。同年、仕事を放棄してレカナーティに帰った。1830年には支援を得てフィレンツェに戻り、『カンティ』の印刷で1832年までレカナーティを離れて暮らすことができた。
その後、友人アントニオ・ラニエリのいるナポリに移り、気候に期待したが、1837年に滞在中に客死した。死因は肺水腫あるいは心不全と推測されている。晩年は脊椎カリエスの症状で背中が曲がり、杖がなければ立てないほど悪化していた。ラニエリのおかげで公共墓地に葬られることはなく、のち移葬されて、現在はナポリ西のサン・ヴィターレ教会に埋葬されている。38歳で亡くなり、終生独身だった。詩は、自分やイタリアの過去を回想し美化して現在との落差を嘆く作品が多いが、古典的素養に裏付けられた豊かな語彙と格調高い韻律で包まれている。ショーペンハウアーやニーチェ、カミュらにも影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドル・プーシキン (1837年没)
- ジョン・フィールド (1837年没)
- シャルル・フーリエ (1837年没)
- パブロ・モリーヨ (1837年没)
- ヘンリー・トーマス・コールブルック (1837年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィゴール・ボボレンタ (2012年没)
- グレゴリウス12世 (ローマ教皇) (1417年没)
- ティトゥス・ラビエヌス (紀元前45年没)