伝記
ティトゥス・ラビエヌスは、共和政ローマ期の軍人・政治家である。紀元前100年ごろに生まれ、紀元前45年3月17日に没した。ガイウス・ユリウス・カエサルの盟友としてガリア戦争で副官(レガトゥス)を務めたが、ローマ内戦ではカエサルと敵対した。ピケヌム近郊のキングルム(現在のチンゴリ)の出身で、生年は法務官になった紀元前60年から逆算されたものであり、カエサルと同年とされる。家は騎士階級に属し、ピケヌム一帯の大地主だったポンペイウス一門のクリエンテスだった。この結びつきで軍内の地位を上げ、紀元前78年から75年まで、紀元前79年の執政官プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクスのもとでキリキアに従軍した。
紀元前63年に護民官となり、紀元前100年に護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスらを殺害した罪で、ラビリウスを告発した。この告訴はカエサルがラビエヌスと組んで起こしたものとされ、ラビエヌスにも、叔父がサトゥルニヌス一派に属して殺されたという理由があった。カエサルの狙いは元老院最終勧告への疑義を突きつけることにあったという。キケロが弁護につき、高齢のラビリウスは市民の同情を集め、判決の前に裁判は立ち消えとなった。紀元前58年、ガリア総督となったカエサルの副官として、ラビエヌスはガリアへ赴いた。
ガリア戦争では、最初のヘルウェティイ族との戦いで『ガリア戦記』が名を挙げた唯一の副官がラビエヌスだった。熟練の騎兵指揮官で、軍功も経歴も豊富だったため、筆頭の副司令官格となり、カエサルがゲルマニアやブリタンニアへ遠征したときは、ガリア全体の統治を任された。紀元前57年のサビス川の戦いでは第9・第10軍団を指揮してアトレバテス族を破り、苦戦するカエサルを助けるためネルウィイ族の背後を突かせた。紀元前54年にはトレウェリ族の首領インドゥティオマルスの挑発に耐え、隙を見て騎兵に急襲させて討ち取った。紀元前52年のルテティアでは軍を分けて渡河すると見せかけ、追ってきたガリア軍を一つに戻した軍で包囲して殲滅し、アレシアの戦いでは最も攻撃の激しい北西の包囲線を守った。紀元前51年にはトレウェリ族を破り、同年9月、カエサルからガリア・キサルピナ属州の統治を任された。
カエサルは元老院派と深く対立した。ラビエヌスは長年の盟友と決別し、騎兵を連れず単身でポンペイウスらの側に加わった。カエサルは離脱の前に話し合いを持ったが、その内容は伝わらない。決別の理由について、3世紀の歴史家カッシウス・ディオは、富と名声を得ても独立した作戦に関われず、将来の執政官就任も期待できなかったことへの逆恨みとした。一方、ティレルは、当時の元老院を中心とする合法的な政府に従うための行動だったと論じた。
ポンペイウスはラビエヌスを騎兵の指揮官としたが、カエサルのもとでのような成功は得られなかった。ファルサロスの戦いに敗れてケルキュラへ逃れ、ポンペイウスの死を知るとアフリカ属州へ向かった。紀元前46年にルスピナでカエサル軍を破ったが、元老院派はタプススで敗れ、小ポンペイウスやセクストゥス・ポンペイウスとともにヒスパニアへ逃れた。紀元前45年3月、ムンダの戦いでは互角の戦いのなか騎兵を率いて奮戦した。だが、マウレタニア王ボグドの騎兵が小ポンペイウスの手勢を攻めたため、ラビエヌスが支援に移ろうとしたところ、味方に退却と誤解されて総崩れとなり、ラビエヌスは戦死した。息子のクィントゥス・ラビエヌスはパルティアへ逃れて軍司令官となったが、紀元前39年に敗れて戦死した。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス (紀元前45年の補充執政官) (紀元前45年没)
- Mithridates I of the Bosporus (紀元前45)
- Sextus Julius Caesar (紀元前45)
- グナエウス・ポンペイウス・ミノル (紀元前45年没)
- Gaius Memmius (紀元前45)
同じ地域に関係する人物
- グレゴリウス12世 (ローマ教皇) (1417年没)
- ジャコモ・レオパルディ (1837年没)
- ヴィゴール・ボボレンタ (2012年没)