HISTORICAL PERSON · 755年没

王昌齢

唐の詩人。七言絶句や辺塞詩に優れ「詩家の天子」と称されたが、安禄山の乱の混乱の中で殺された。

生涯
755年没
死亡地
中華人民共和国(安徽省)
出生地
中華人民共和国(太原市)
出典
世界地図
中華人民共和国(安徽省)

伝記

王昌齢(おう・しょうれい)は、中国唐代の詩人である。698年に生まれ、755年から757年のあいだに没したとされる。字は少伯。のちに就いた官職の地名から、王江寧、王竜標とも呼ばれた。京兆府の生まれとされるが、『唐詩三百首』の編者は太原の出身とした。七言絶句にとくに優れ、後世からは「七絶聖手」と称えられ、当時は「詩家の天子」とも呼ばれた。

若いころは貧しく、農業に従事していたという。720年に長安を出て嵩山にしばらく滞在し、道士に会って錬丹術を学び、道教の書物や道について学んだ。その後は各地を旅した。725年には北西の辺境地帯を自由に行き来し、軍の幕僚に加わろうとしたが成果はなく、726年の秋に帰った。この旅で辺境の暮らしを深く知り、多くの辺塞詩を作る機縁になったとされる。

727年(開元15年)に進士に及第し、翌年には都に来た田園詩人の孟浩然と交わった。最初は秘書省の校書郎に任じられた。734年(開元22年)には博学宏詞科に及第し、汜水県尉となった。翌735年、ある事件のために官位を落とされ、流される。江陵のあたりを通った際には孟浩然に招かれ、しばらくそこに身を寄せた。739年には、朝廷が改めて処分を確認して嶺南に流されたが、同じ年に玄宗が大赦を行い、その恩恵を受けた。翌年に孟浩然と再会して喜び合ったが、宴会のすぐ後に孟浩然は急死し、王昌齢は都に戻った。このころ李白と知り合い、巴陵で李白を送る詩を作った。741年に再び召されて江寧(現在の江蘇省南京市江寧区)の県丞となったが、この職には不満だったという。744年ごろには用事で長安に出向き、辛漸、李白、王維らと交わった。江寧で数年を過ごしたのち、行いが細かな点に気を配らず、職務にまつわる決まりや慣習を守らなかったことなどを理由に、奔放な生活ぶりが咎められ、またも処分を受けた。左遷先は南方の竜標(現在の湖南省懐化市芷江トン族自治県)の県尉であった。

755年に安禄山と史思明の乱が起こると、戦乱のなかで官を辞し、北へ上って故郷に帰ろうとした。しかし亳州の刺史であった閭丘暁に憎まれて殺されたと伝わる。没年を756年とする説もある。のちに閭丘暁は、安禄山軍の侵攻に対して唐側の張巡を救援しなかった罪で、唐の張鎬によって杖殺された。その際、閭丘暁が「親がいるので命を助けてほしい」と言うと、張鎬は「王昌齢の親は誰に養ってもらえばよいのか」と反論し、閭丘暁は押し黙ったと伝えられる。

王昌齢は高適、王之渙、岑参、李頎らの辺塞詩人や、王維、孟浩然、常建とも親しく、とくに李白とは深い友情で結ばれていた。詩は辺塞詩の佳作が多く、閨怨詩、送別詩にも才を発揮した。「詩緒密にして思い清し」という評がある。詩の様式は雄大で堂々としており、独自の風格を成したとされる。詩論には仏教の影響があったともいう。辺塞詩は、盛唐の気風を映し、勇ましい意気や勝利の喜びを詠むとともに、砂漠の風や長城の月のもとで故郷の人を思う気持ちも、情と景を溶け合わせた繊細で奥深い筆致で表した。実体験や当時の社会の状況を多く描く写実的な作風で、思いは明快であった。詩集は5巻で、詩論家として『詩格』『詩中密旨』のほか、『郗昂楽府古今題解』『続楽府古解題』などの書物もある。その官歴は安定せず、波乱に富んだもので、唐の繁栄が次第に衰えていく時代を映していたと評される。

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