HISTORICAL PERSON · 220年没

夏侯惇

後漢末から三国時代の武将で、曹操の従兄弟。挙兵時から曹操の副将として従い、呂布の謀叛では鄄城を守った。左眼に矢を受け盲夏侯と呼ばれた。太寿水に堤防を築いて稲作を指導し、220年に没した。

生涯
220年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(安徽省 / 亳州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(安徽省)

伝記

夏侯惇は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家である。字は元譲。豫州沛国譙県の人で、前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔という。曹操の父の曹嵩は叔父にあたるともいわれ、曹操の従兄弟で、夏侯淵は遠縁の従弟にあたる。14歳のとき、学問の師を侮辱した男を殺し、荒い気性の人として知られるようになった。曹操が挙兵した時から、常にその副将として付き従った。

190年に曹操が奮武将軍を称すると、その司馬に任じられた。曹操が董卓配下の徐栄に敗れると、兵の不足を補うため、曹操や曹洪とともに揚州に赴いて精強な兵を得たが、反乱で多くを失った。曹操が兗州に勢力を広げると、別軍を率いて白馬に駐屯し、折衝校尉・東郡太守に任じられた。この頃、韓浩や典韋といった人物を見出して部下に迎えている。曹操が徐州に遠征した際には濮陽の留守を預かったが、張邈・陳宮らが呂布を引き入れて謀叛を起こし、兗州の大半が曹操から離反した。鄄城の荀彧と程昱に呼び寄せられた夏侯惇は、城内の曹操の家族を守るため軽装の兵で急行し、途中で呂布軍と交戦した。呂布の策で夏侯惇は捕らえられかけたが、韓浩の果敢な対応で救出された。鄄城に着くと、その夜のうちに城内で叛乱を企てた者たちを逮捕して処刑し、軍の安定を取り戻した。

その後の呂布討伐で、夏侯惇は流れ矢を左眼に受けた。同族の夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名されたが、本人はこれを嫌い、鏡で自分の顔を見るたびに怒って鏡を投げ捨てたという。陳留太守・済陰太守を歴任し、建武将軍を加えられ、高安郷侯に封じられた。蝗害が起こると、太寿水をせき止める堤防を築き、自ら土を担いで働き、将兵を率いて稲作を指導して民を助けた。199年には洛陽の長官である河南尹に転任した。劉備が曹操の留守を狙って葉県に侵入すると、于禁・李典を率いて迎え撃った。劉備は博望に退いたが、李典が伏兵を警戒して諌めたのに追撃し、案の定伏兵に襲われて危機に陥り、李典に救出された。204年には伏波将軍に昇進し、河南尹の職も引き続き任され、法令に拘束されず自己の判断で職務を行うことを許された。206年に高幹が張晟らと反乱を起こすと、その討伐に向かい、高幹・張晟を撃破し、呼応した衛固・范先を捕らえて処刑した。

217年、濡須口で孫権を攻め落とせず曹操が撤退した後、夏侯惇は揚州方面26軍の総指揮官に任じられ、居巣湖辺に留まって張遼・臧覇らの指揮を任された。曹操は楽人と歌姫を与え、功績を古人になぞらえて賞賛した。219年、曹操は関羽に備えて摩陂に駐軍した時に夏侯惇を呼び寄せ、車への同乗や寝室への出入りを許すなど、特に親しんで重んじた。その厚遇に比肩できる者はいなかったという。このとき魏の前将軍に任じられた。それまで夏侯惇は、曹操が不臣の礼として魏の官位を与えなかったため、配下で唯一漢の官位にあったが、自分には過ぎた扱いとして固辞し、魏の官位を与えられるよう強く要請したという。

220年正月に曹操が亡くなり、曹丕が魏王を継ぐと、3月に夏侯惇は大将軍に任命された。しかし延康元年(220年)4月、曹操の後を追うように病に倒れて世を去り、諡は忠侯とされた。曹操が帝位につくことに反対したのを後悔して発病したという説もある。233年には、曹仁・程昱とともに曹操の廟庭に祭られた。功臣の合祀はたびたび行われたが、この三人が最初であった。夏侯惇は遠征中でも師を迎えて熱心に授業を受け、清潔で慎ましやかな性格で、余財は人々に分け施し、利殖に励むことはなかった。没後には7人の子と2人の孫が関内侯に封じられたという記録がある。

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