HISTORICAL PERSON · 972年没

リュートプランド (クレモナ司教)

クレモナ司教(在任961〜972年)で、神聖ローマ帝国の外交官・歴史家。東ローマ通で、967年にオットー1世の使節としてニケフォロス2世と交渉し、『コンスタンティノープル使節記』を著した。

生涯
972年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(パヴィーア県 / パヴィーア)
出典
世界地図
イタリア共和国(パヴィーア県)

伝記

クレモナのリュートプランドは、920年ごろに生まれ、972年に没した外交官・政治家・歴史家・聖職者である。961年または962年からクレモナ司教を務めた。表記はリウトプランドやリウドプランドとも書かれる。10世紀の東ローマ宮廷の政治を知るうえで重要な史料を残し、東ローマ通として知られる。

北イタリアのパヴィア出身で、ランゴバルド系の名家に生まれた。一族は代々パヴィアの宮廷に仕え、東ローマ帝国との外交を担ってきた。父と継父もコンスタンティノープルへ使節として送られている。931年にはパヴィアに宮廷を構えるイタリア王ウーゴの小姓となり、宮廷で教育を受けてパヴィア大聖堂の助祭となった。947年にウーゴが没すると、イタリアの事実上の支配者だったイヴレア辺境伯ベレンガーリオ2世の秘書、のちに尚書官長となった。

949年、外交官見習いとしてコンスタンティノープルに派遣され、コンスタンティノス7世の宮廷を訪れた。ギリシア語を学ぶことが目的の一つで、西方人として初期にギリシア語の小文字体を使った一人でもあった。この留学は非常に快適で、帰国の際には東ローマの名産だった緋の絹布を大量に輸入して大きな利益を上げたという。帰国後はベレンガーリオと不和になり、のちに『報復の書』を書いてその恨みを晴らした。そして、951年にランゴバルドの王として戴冠していたオットー1世に仕えるようになった。953年にはオットー1世が、コルドバのアブド・アッラフマーン3世に宛てた親書を使者に持たせたが、その内容はイスラームやカリフへの無知から、使者の命さえ危うくしかねないものだったという。コルドバの司教が使者を滞在させ、オットー1世のもとへ赴いて新しい親書を956年に持ち帰った。この間、リュートプランドはコルドバの使節レセムンドと親しくなり、勧められて『報復の書』を書き、レセムンドに捧げた。961年にオットー1世がベレンガーリオを廃するためイタリアに戻ると、翌年にクレモナ司教に叙任された。重要な外交をしばしば任され、963年には教皇ヨハネス12世のもとへ遣わされた。教皇とオットー1世が、ベレンガーリオの子アーダルベルトをめぐって争い始めた時期である。ヨハネス12世を廃位したローマの教会会議にも出席し、その経緯を唯一まとまった形で書き残した。

オットーが皇帝となったのち、967年または968年に、息子のオットー2世の妃に東ローマの皇女を迎えるため、ニケフォロス2世のもとへ使節として赴いた。しかし東ローマ側は、神聖ローマ帝国の皇帝となったオットー1世を簒奪者とみなしており、宮廷の反応は冷ややかだった。さらに、前回と同様に緋の絹布を持ち帰ろうとして、税官吏に押収された。皇帝の名を出して抗弁すると、緋の絹布は知恵にも富にも抜きん出た民族だけが使うものだと侮辱され、リュートプランドは、イタリアでは最下等の街娼や辻占いでさえこの色を着ると言い残して帰国した。激情家だった彼は公平さを失い、オットー1世宛の手紙などで東ローマ宮廷への罵詈雑言を連ね、事実を曲げた記録も数多く残した。この使節の記録『コンスタンティノープル使節記』は、10世紀の著作の中でも際立って生き生きとした文章とされ、描写は貴重だが、東ローマへの敵意に強く染まっている。

971年に皇女テオファヌを迎える使節に加わったかどうかは定かでない。972年7月20日より前に亡くなったと思われ、後任の司教は973年に着任した。堀米庸三は、彼に匹敵するギリシア通が後世に現れなかったため、東ローマに対する彼の偏見が後世まで影響を及ぼしたと述べている。

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