伝記
ルイ・アントワーヌ・ド・フランスは、1775年8月6日、ヴェルサイユで生まれたフランス王家の王族である。父はアルトワ伯シャルル(のちの国王シャルル10世)、母はサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘マリー・テレーズで、その長男にあたる。弟にベリー公シャルル・フェルディナンがいる。生まれた子は、ブルボン家の新しい世代で最初の王子として温かく迎えられた。伯父の国王ルイ16世は、結婚から5年を経ても子がなく、父の側に先に男児が生まれたことは、とくに父アルトワ伯を喜ばせたという。誕生時にはルイ16世からアングレーム公の称号を授けられ、名付け親は国王夫妻だった。タンプル修道院の最後の名義上の修道院長も務めた人物である。
フランス革命が起こると、父とともに国を離れて亡命生活に入り、1792年にはイギリス政府の資金援助を受けるコンデ公の軍に加わった。ロンドンに亡命していた1799年、ロシアのクールラントで亡命宮廷を開いていた伯父ルイ18世の勧めにより、ルイ16世とマリー・アントワネットの長女で従妹のマリー・テレーズと結婚した。結婚後もコンデ公らとともに対ナポレオン戦争に加わった。ナポレオン支配下では、大陸とイギリスの連絡が絶たれたため、一家の維持や亡命軍の年金のための多額の資金が、ウィーンの銀行を通じて届けられた。1814年にはスペインでウェリントンの軍と並んで戦い、復古王政とともにフランスへ帰国した。
1815年、エルバ島を出たナポレオンが上陸したとき、公はボルドーを公式訪問中だった。南仏で小さな軍を集めて局地的な勝利も収めたが、結局は失敗し、部隊の解散を余儀なくされた。百日天下が始まるとナポレオンの命を受けたラデ将軍に逮捕され、セートへ送られて国外へ去ることになった。のち第二次復古王政が始まると、白色テロを行う超王党派の1人として国内で弾圧に関わったとされる。一方で、イギリスの政治に魅せられて議会政治への憧れを抱き、絶対王政を強く支持する妻とは口論になることも多かった。1819年から1830年まで王立監獄改善協会の総裁を務めている。1823年には、スペインでリエゴ大佐の反乱に始まった革命に対してフランス軍を率いて遠征し、トロカデロ砦の戦いに勝利してカディスを占領し、フェルナンド7世の復位に寄与した。この遠征では、国王の「従兄弟で友人」を絶対君主として復位させるのが目的だと繰り返し念を押すヴィレールとの間で、緊張も生じたという。1816年にはヴィルヌーヴ=レ=マグロヌの町が公に敬意を表して名を改め、1817年にはヴァンデの戦争で知られるショレを訪れて、和解の場になったともいう。
1824年に父が国王シャルル10世として即位すると、王太子に立てられ、妻とともに国内視察や慈善活動を行ったが、国内での評価は低かった。1830年の7月革命で再び亡命する。父が退位したまさにその日、同じ文書で、甥のシャンボール伯アンリへ継承権を譲ることに同意した。この放棄は退位ではなかったため実際には即位していないが、正統王朝派は国王と認め、ルイ19世と呼ばれることがある。亡命後はマルヌ伯の称号を名乗り、1836年に父が亡くなってからは、ブルボン家の当主としてフランス王位を主張する立場にあった。フランスを追われてからは、姓をド・ブルボンからド・フランスに改め、ルイ・アントワーヌ・ド・フランスを名乗った。1844年6月3日、当時オーストリア帝国領だったゴリツィアで癌に侵され、闘病中に失明して世を去った。夫婦仲は良かったが、子女には恵まれなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ドルトン (1844年没)
- ガエターノ・サヴィ (1844年没)
- ジョゼフ・ボナパルト (1844年没)
- エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール (1844年没)
- フランツ・ジーバー (1844年没)
同じ地域に関係する人物
- Ivano Blason (2002年没)
- ウンベルト・サバ (1957年没)
- シモン・グレゴルチチ (1906年没)
- マリー・テレーズ・ド・モデーヌ (1886年没)
- シャルル10世 (フランス王) (1836年没)