伝記
グレゴリウス16世は、1765年9月18日に生まれ、1846年6月1日に没したローマ教皇である。在位は1831年2月2日から没年まで。本名はバルトロメオ・アルベルト・カッペラーリといい、修道名はマウロであった。高まるイタリア統一運動と、それに期待する世論を読みきれず、教会と世俗国家との溝を広げることになった。選出時に司教でなかった教皇として、また修道会司祭出身として、最後の教皇である。
ヴェネツィア共和国のベッルーノで、下級貴族の家に生まれた。両親はフリウリの小さな村の出身で、父は弁護士であった。18歳でカマルドリ会に入り、ヴェネツィア近郊のムラーノにあるサン・ミケーレ修道院に入った。1787年に司祭に叙階され、22歳で同修道院の哲学と神学の教師になった。神学と語学の才により、若くして修道会内外に名を知られた。1790年には、修道会とヴェネツィアの検邪聖省の書籍検閲官に任命された。1795年にローマへ行き、1799年にジャンセニスムを糾弾する『聖座の勝利』を著して、これはイタリアのみならず、ヨーロッパ諸国でも出版された。1800年にはできたばかりのカトリック・アカデミーの会員に選ばれた。1805年に、ローマのサン・グレゴリオ・マーニョ修道院の院長となった。
1809年にナポレオン軍がローマを占領し、教皇ピウス7世を捕らえてフランスに送ると、ムラーノへ逃れた。ナポレオンの最終的な敗北後、ウィーン会議が教皇領の主権を回復すると、ローマに呼び戻されて、カマルドリ会の総代理となった。その後、検邪聖省の顧問、布教省長官などを経て、1825年3月に枢機卿に任ぜられ、レオ12世のもとで教皇庁の外交職に従事した。ベルギーとオランダのカトリック教徒の権利を守る政教条約を交渉して成功させ、アルメニアのカトリック教徒のためにオスマン帝国との和平も取りまとめた。ポーランドの革命家を公然と非難した。一方で、イタリアを出たことがなく、イタリア語とラテン語のほかの言語は話さず、ヨーロッパの政治は理解していなかったと評される。二度司教職を提示されたが、二度とも断った。
1831年2月2日、ピウス8世の死去を受けて始まった50日間のコンクラーヴェの末に、45人の枢機卿の中から選ばれ、グレゴリウス16世を名乗った。有力候補が外国の王に拒否権を使われ、残る二人の候補の間で行き詰まった末の、意外な結果であった。選出時には司教でなかったため、戴冠式の日に司教に叙階された。1830年の七月革命の後、フランスがイタリア領を脅かす気配を見せると、イタリア国内で自主独立の気運が高まった。しかし、教皇領の治安維持にオーストリア軍の出動を依頼したため、領内で民衆の暴動が起こった。近代と名のつくものすべてを嫌悪したらしく、鉄道やガス灯すら教皇領内に設置するのを拒んだ。1834年には、再三の警告のあと、カトリック自由主義の論客ラムネーを破門した。回勅「ミラリ・ヴォス」で、無制限な良心の自由などの自由主義の考えに反対し、一方で奴隷貿易を非難し、宣教の拡大を奨励した。芸術の庇護者でもあった。近代主義と世俗国家を糾弾し、教会が自らの中に閉じこもっていったその時代の姿勢は、のちの第1バチカン公会議にいたる伏線となった。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル・アレクサンドル・ルスール (1846年没)
- ゲオルク・フリードリヒ・プフタ (1846年没)
- ルイ・ボナパルト (1846年没)
- オットー・フォン・コツェブー (1846年没)
- Carlo Gaetano Gaisruck (1846年没)
同じ地域に関係する人物
- ルキウス・ユニウス・プッルス (紀元前240年代没)
- ベネデット・カステッリ (1643年没)
- Paul Mayer (2010年没)
- イグナチオ・デ・ロヨラ (1556年没)
- Saint Marcella (410年没)