伝記
クリスチャン8世は、1786年9月18日にコペンハーゲンのクリスチャンスボー宮殿で生まれ、1848年1月20日に没したデンマーク国王(在位1839年〜1848年)である。1814年には、クリスチャン・フレデリクの名で一時ノルウェー国王にも就いた。ノルウェー国王としての在位とデンマーク国王としての在位は、時期が異なる。父は、フレデリク5世と2度目の王妃ユリアーネ・マリーの子であるフレデリク王子、母はメクレンブルク=シュヴェリーン公女ゾフィー・フリーデリケで、その長男として生まれた。同月28日には母の部屋で洗礼を受け、クリスチャン・フレデリクと名づけられた。なお、一族の内部では、実の父は王子の副官で宮廷長だったフレデリク・フォン・ブリュッヒャーだろうと広く考えられていたと伝えられる。
誕生当時、父の異母兄クリスチャン7世が王位にあったが、精神の病で自ら統治できず、1784年に王太子フレデリク(後のフレデリク6世)が宮廷革命で実権を握っていた。そのため、幼いクリスチャン・フレデリクの一家は王太子の家と緊張した関係にあったが、やがて関係は正常化した。1794年2月にクリスチャンスボー宮殿が火災で壊滅し、同年11月には病弱だった母が36歳で亡くなった。教育は大臣オーヴェ・ホイ=グルベアの方針で保守的に行われ、画家や科学者に触れる幅広いもので、科学と芸術への愛を生涯持ち続けたという。1803年5月22日には堅信礼を受け、1805年12月に父が没すると、19歳で王位継承順位第2位の地位を引き継いだ。1808年3月にクリスチャン7世が没して王太子がフレデリク6世として即位したが、新王にはなお男子がなく、彼は王位継承の第一候補となった。母方の親戚を訪ねたシュヴェリーンで従妹のシャルロッテ・フリーデリケに恋をし、2年後の1806年6月21日にルートヴィヒスルストで結婚した。二人の間には、夭逝したクリスチャン・フレデリクと、のちのフレデリク7世となるフレデリク・カールが生まれたが、1810年に離婚した。
ナポレオン戦争の最中の1813年5月、従兄のフレデリク6世からノルウェー総督に任命された。しかしキール条約でデンマークがノルウェーをスウェーデンに割譲することになり、帰国を命じられても従わなかった。1814年2月16日にノルウェー摂政、5月17日に国王に推戴され、同時に憲法が制定されて独立が宣言された。だが列強の承認は得られず、列強から条約の履行を命じられた。彼は、立憲君主として王位に就いたので議会の同意なしには何もできないと述べ、議会の開会にはスウェーデン軍との停戦が前提だとしたが、スウェーデンはこれを拒否した。ノルウェーはカール・ヨハン率いるスウェーデン軍に屈し、8月14日のモス条約で戦争が終結して、ノルウェーはスウェーデンとの同君連合下で自治が認められた。クリスチャン・フレデリクは退位してデンマークへ帰国し、反動的なヨーロッパの宮廷では歓迎されなかった。
1815年にはアウグステンブルク公の娘カロリーネ・アマーリエと再婚したが、子は生まれなかった。1839年12月13日にフレデリク6世が没すると、デンマーク王位を継承した。国王としては自由主義の改革を拒否し、行政の改革にのみ同意した。1848年1月20日に没し、ロスキレ大聖堂に葬られた。
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