伝記
韓幹は、盛唐時代の画家である。706年に生まれ、783年に没したとされる。出身地は大梁とも京兆郡藍田県ともいわれ、河南や山西の出という説もあって、はっきりしない。人物画や鞍馬画に長け、とりわけ馬の絵で名高く、馬の画法に後世まで大きな影響を与えた。
貧しい家の出で、はじめは酒屋の出前をしていたと伝えられる。長安で、王維・王縉の兄弟のもとへ酒代を取り立てに行き、待っている間に地面に人や馬を描いたところ、画に秀でていた王維にその才を見いだされた。王維は年に銭2万を与え、十数年にわたって韓幹に絵を学ばせたという。はじめは曹覇に師事し、人物画や仏教壁画なども手がけた。
天宝年間、およそ750年ごろに玄宗に宮廷へ召され、その命で馬の名手である陳閎に学ぶことになった。ところが韓幹の描く馬が陳閎とは大きく違っていたため、玄宗に理由を詰問された。このとき韓幹は「臣には自ずから師があります。陛下の内厩の馬は、みな臣の師です」と答えたという。これによって玄宗に異才を認められた。宮廷では玄宗や諸王の所有する名馬を数多く描き、「古今独歩」と評された。官位は太府寺の丞(従六品上)にまで至った。写実的に描かれた馬は、のちの時代にも多くの模倣や敬意の対象となった。
安史の乱の後は、することがなくなっていたとされる。このころの話として、鬼の使いと称する人物に頼まれて馬の画を描いて焼いたところ、後日、その使いが焼かれた馬に乗って礼に来るのを見た、という伝承が残る。『酉陽雑俎』にも、韓幹の描いた馬が現実に現れて韓幹の前に立ったという話がある。また、画が焼けるときに命を得たという伝説もある。評価は時代によって分かれる。杜甫は詩「丹青引」で、韓幹の馬を師の曹覇の馬より劣るとした。これに対し、『歴代名画記』を著した晩唐の張彦遠は反論し、『唐朝名画録』の朱景玄も、韓幹を第三位の「神品下」と高く評価している。
韓幹が馬の画で名を成した背景には、唐の時代状況があるとされる。唐は、自国の小柄な馬より足の速い馬を持つ民族と絶えず対峙しており、良馬を手に入れるためにさまざまな策を講じた。貴族にも馬の文化が求められ、ポロや狩猟、競技が皇帝のもとで盛んになった。馬は中央アジアへの進出に欠かせない存在となり、絵画はその熱気を映した。かつて太宗の陵を守った石造りの馬が頑丈でずんぐりしていたのに対し、このころは数知れぬ豪華な乗用馬が描かれ、宮廷の厩には四万頭の馬がいたという。フェルガナやホータンなどから貢ぎ物として都に送られた名馬も多く、陳閎と韓幹は皇帝お気に入りの馬を描くよう求められた。そうした絵は、外国が唐の威信に敬意を表した証しでもあり、歴史的な意味を帯びた。韓幹の作と伝わる「照夜白」は、たてがみを一本ずつ力強い線で描き込んだ馬の肖像で、写実を求める唐代の傾向に合うと評されてきた。画面の中央には馬をつなぐ頑丈な杭があり、馬は必死の力で抗って、こちらに目を向けている。これを、踊りを仕込まれた宮廷の馬のつらい境遇や、多くの制約を受ける朝廷の良臣になぞらえて見る人も多い。北宋の徽宗の収集目録には、文人たちが馬を好んで描くのは、疲れた駄馬にも駿馬にも自らをなぞらえる思いがあるからだと記されている。また、馬丁が二頭の馬を引く図では、白に近い馬に乗るひげの異国人と、その傍らで引かれるほぼ黒一色の駿馬とが、絹の白と墨の黒の対比のなかに描かれる。
同じ年に亡くなった人物
- Arbeo of Freising (783年)
- ヒルデガルト (フランク王妃) (783年)
- ムカンナア (783年没)
- シロ (アストゥリアス王) (783年没)
- ベルトラード・ド・ラン (783年)