HISTORICAL PERSON · 239年没

曹叡

魏の第2代皇帝で、卑弥呼の使者が拝謁した皇帝として知られる。曹丕の長男だが母の甄氏を父に殺され、即位後は母に文昭皇后を追贈した。曹真や司馬懿らを用いて諸葛亮の北伐を防ぎ、合肥へ親征した。

生涯
239年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
—
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

曹叡は、三国時代の魏の第2代皇帝である。日本では、卑弥呼の使者が拝謁した皇帝として知られる。文帝曹丕の長男で、生母は甄氏。延康元年(220年)に数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)に平原王に封じられた。16歳のとき母の甄氏が父に誅殺され、文帝は曹叡を好まず、徐姫の子の京兆王曹礼を後継ぎにしたい気持ちもあったため、曹叡は長く太子になれなかった。黄初7年(226年)に文帝が重病となってようやく皇太子に立てられた。それまで公の場に出ることが少なく、その人柄を知る者は司馬懿などごく限られていたという。

同年5月に文帝が崩じて即位すると、ただちに母に皇后位を追贈し、文昭皇后と諡した。在位中は呉の孫権や蜀漢の諸葛亮の侵攻が相次いだ。227年に孟達が諸葛亮と内通して反乱すると司馬懿が翌月に斬り、228年の第一次北伐では曹真と張郃を派遣して街亭で破った。同年、呉の周魴の偽りの投降に乗って曹休に大軍を与えて呉を攻めさせたが、曹休が大敗して数万人以上の犠牲が出た。その直後に諸葛亮が陳倉を囲んだが、守将の郝昭がわずか千人ほどで守り抜き、諸葛亮は撤退した。皇族の曹真、司馬懿、張郃ら祖父曹操以来の宿将を用いて防がせ、第一次北伐では自ら長安へ赴いて動揺を鎮めた。230年には曹真の進言で蜀へ攻め入ったが、長雨のため撤退を命じている。234年に呉が合肥などを攻めると、合肥を放棄しようとした満寵の計画を詔で改めさせ、自ら大軍を率いて親征し、孫権は魏の中央軍が着く前に撤退した。五丈原で諸葛亮と対峙する司馬懿には、決戦を避けて持久し、撤退時に追撃せよと命じ、防衛の成功に貢献した。232年以降は田豫や王雄に命じて遼東に軍事行動を重ねたが、蔣済に信義を失うべきではないと批判され、諫言を受け入れずに進めた侵攻は失敗に終わった。233年には曹操の廟庭に夏侯惇、曹仁、程昱を功臣として祭った。

237年には七廟の制を整え、曹操と文帝に太祖・高祖の廟号を定め、自身の廟号を烈祖とした。238年に遼東の公孫淵が燕王を自称して反乱を起こすと、群臣の反対を押し切って討伐を決め、司馬懿に全権を委ねて早期に鎮めた。この年、卑弥呼の使者が洛陽に着いたとされ、事実であれば拝謁した皇帝は曹叡である。

晩年には重い病にかかり、巫女の登女がいう神の水を求めたが効かず、登女は処刑された。死期を悟った曹叡は曹宇を大将軍とし、曹爽らに幼い曹芳を補佐させようとしたが、劉放と孫資の讒言によって考えを二度変え、病床で手を取られて詔書を書かされる形で司馬懿と曹爽を後見に改めた。239年1月に崩御し、高平陵に葬られた。享年は35歳または33歳とされる。

外征が頓挫すると呉・蜀漢への侵攻は中止し、守勢に転じて専守防衛に徹し、両国の侵攻を食い止めた。政治面では、中央で陳羣が政治を取り仕切っていたが、その死去する頃から乱れ始め、宮殿の造営や農繁期の徴用で財政は傾き、農村は荒廃した。兵士の家同士の結婚を奨励する政策は人身売買を横行させた。重臣のほとんどが反対したが、強硬に推し進めたという。司馬光は『資治通鑑』で、諸葛亮の死で外圧が消えて気が緩み、好みの大土木事業を行ったとした。『晋書』は即位してから欲望をほしいままにし、人々が餓えても労役が減らなかったと厳しく評する。一方、生まれつき容貌が優れ、望み見ると侵しがたい威厳があったとされる一方、吃音のため言葉は少なかったともいわれる。諫言した者を処刑せず、重臣に厚い信頼を寄せた。名声を競う者たちを軽薄として免職し、盧毓に言った「画餅」の言葉でも知られる。

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