HISTORICAL PERSON · 1848年没

ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)

イギリスの政治家。ホイッグ党を率いて首相を2度務め、ヴィクトリア女王即位時の首相として女王の寵愛を受けた。

生涯
1848年没
死亡地
イギリス連邦(ハートフォードシャー / ブロケット・ホール)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(ハートフォードシャー)

伝記

第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムは、1779年3月15日、初代メルバーン子爵ペニストン・ラムの次男としてロンドンに生まれた。ラム家は代々ホイッグ党を支持する家柄である。イートン校を経てグラスゴー大学とケンブリッジ大学で学び、リンカーン法曹院に入って、1804年に弁護士の資格を得た。次男であったため子爵位の継承は期待されていなかったが、1805年に兄ペニストンが亡くなって跡取りとなり、同じ年にベスバラ伯爵の娘で小説家のキャロライン・ポンソンビーと結婚した。

1806年に庶民院議員に初当選し、はじめはホイッグ党に属した。1812年にはカトリック解放を支持したために落選したが、1816年に再選された際にトーリー党へ移り、党内の自由主義派であるジョージ・カニングの支持者となった。名前が広く知られるようになったのは、1812年に妻キャロラインが詩人バイロン男爵と不倫に走った醜聞によるもので、二人は1825年に離婚した。一方でウィリアム自身も国王ジョージ4世の放蕩仲間で、多くの女性と関係を持ったという。1827年にカニング内閣が成立すると閣外大臣となった。カニングの死後に発足したウェリントン公爵内閣にもいったん残ったが、カニング派の閣僚たちとともに首相の守旧的な方針に反発し、1828年6月に辞職した。

1828年7月22日に父が没して爵位を継ぎ、貴族院に移った。1830年にハスキソンが鉄道事故で亡くなると、パーマストン子爵とともにカニング派の指導者となり、ホイッグ党との協力を進めて、同年11月にウェリントン公爵内閣を総辞職に追い込んだ。成立したグレイ伯爵内閣には内務大臣として入閣する。内閣の最優先課題は選挙法改正で、メルバーン子爵は外相パーマストン子爵とともに最小限の改正を望む慎重派だったが、1832年6月に第一次選挙法改正が実現した。1834年7月にグレイ伯爵が辞職すると、その推挙で組閣の大命を受けた。退く首相が後任を国王に推挙した初めての例とされる。だが、ジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にする人事に反対した国王ウィリアム4世と対立し、同年11月14日に罷免された。

その後、少数党の保守党政権が生まれ、第1次ピール内閣は1835年4月、アイルランド教会税の問題で総辞職した。国王はメルバーン子爵を嫌ったが、グレイ伯爵が高齢を理由に拝辞して後任に推したため、再び組閣する。過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないという密約を保守党と結び、保守党と急進派・オコンネル派のあいだで均衡をとりながら六年にわたり政権を担った。1837年6月にウィリアム4世が没し、18歳のヴィクトリアが即位すると、首相は王女のいるケンジントン宮殿に参内した。助言者を必要としていた女王は彼を慕い、宮廷で毎日のように相談相手を務める彼は半ば個人秘書のようになったという。

1838年に盛り上がったチャーティズム運動には抑圧の姿勢で臨み、1839年から1840年にかけて指導者およそ500人を逮捕させた。1839年5月にはジャマイカの奴隷制度廃止法案が庶民院でわずか5票差の可決にとどまり、辞表を出したが、後任に指名されたピールの女官人事の提案を女王が拒んだ寝室女官事件のため、続投することになった。在任中には、パーマストン子爵の主導で阿片戦争や第一次アフガン戦争が始まった。1841年6月の総選挙でホイッグ党が敗れて総辞職し、1842年に党首の座をラッセル卿とランズダウン侯爵に譲った。女王の相談役は次第に夫のアルバート公へ移り、1848年11月24日に没した。

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