伝記
ニコラウス・レーナウは、1802年8月13日に当時ハンガリー領だったシャダート(現在のルーマニア・ティミシュ県レナウヘイム)で生まれたオーストリアの詩人である。本名はニコラウス・フランツ・ニーンブシュ・エドラー・フォン・シュトレーレナウといい、父はドイツ系とスラブ系、母はドイツ系とハンガリー系の血筋だった。ハプスブルク君主国の官吏だった父は放縦な暮らしがたたって1807年に早世し、子どもたちは母に託された。母は1811年に再婚し、一家の暮らしは安定して、子どもたちにふさわしい教育を受けさせることができた。同年、レーナウはピアリスト会の学校でラテン語とキリスト教を学び、ヴァイオリンとギターも習い始めた。祖父のニーンブシュ大佐が孫たちをハンガリーから呼び寄せて学費を出し、休暇には祖父母のもとで野山を駆けまわって過ごしたという。
1819年にウィーン大学に入り、哲学や農学を学んだ。1820年には筆名をニコラウス・レーナウと定めている。その後ポジョニでハンガリー法を学び、さらに約4年間医学へ進んだが、ファウストのようにあらゆることを知り試そうとして満足できず、職業を決められないまま学業を終えなかった。1829年に母を亡くしたことは深い打撃となり、幼いころからの信仰を失う一因になったとされる。1830年にはロシア帝国に抗するポーランドの解放運動に心を寄せ、のちに『ポーランドの歌』としてまとめる詩を書いたが、蜂起は鎮圧され、詩も検閲を受けた。莫大な遺産が入ったことで1831年にシュトゥットガルトへ移り、ウーラントらシュヴァーベン詩派と親交を結んだ。同年11月ごろにはハイデルベルクで詩人のグスタフ・シュヴァープと知り合い、その尽力でコッタ社から詩集が出た。
1832年、政治的自由と原生自然の詩的刺激を求め、10月にボルティモアへ上陸して北米へ渡った。オハイオの入植地で暮らしたのち、ロバート・オーウェンが築いた理想主義者の共同体ニュー・ハーモニーに約半年滞在したが、森の暮らしの現実や冬の厳しさ、人々の物質主義に失望し、短期間で帰欧した。帰国後はゾフィー・フォン・レーヴェンタールという既婚女性と約十年にわたり、互いに思いながら成就しえない関係を続け、その経験は詩と思想に深い影響を与えた。この時期には『葦の歌』(1832年)、叙事詩『ファウスト』(1836年)、『サヴォナローラ』(1837年)、『森の歌』(1843年)などを発表した。ハンガリー的な情熱とスラブ的な憂鬱が交じり合った作風から「世界苦の詩人」と呼ばれ、ポーランドの民族運動に同情的だったことから「オーストリアのバイロン」とも称された。
1844年、別の女性との婚約直後に急性の精神・神経症状と自殺念慮を伴う異常行動を示し、療養施設に収容された。病状はおそらく晩期神経梅毒による進行麻痺で、約6年間にわたり精神と身体の機能を失った末、1850年8月22日にオーバーデーブリングで死去した。クロスターノイブルクのヴァイトリンクに葬られている。ベートーヴェンを崇拝してヴァイオリンを弾いた詩人の作品は、リストの『レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード』やリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』など、多くの作曲家に着想を与えた。生地のシャダートは1926年に彼にちなんでレナウヘイムと改称された。
同じ年に亡くなった人物
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- ザカリー・テイラー (1850年没)
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- Wolfgang Priklopil (2006年没)
- クレメンス・フォン・ピルケ (1929年没)
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