HISTORICAL PERSON · 796年没

ヒシャーム1世

後ウマイヤ朝の第2代君主。788年に父アブド・アッラフマーン1世の後を継ぎ、兄スライマーンとの争いに勝った。北のアストゥリアス王国への夏の遠征を始め、洪水で壊れたグアダルキビール川の石橋も修理させた。

生涯
796年没
死亡地
スペイン王国(コルドバ県 / コルドバ)
出生地
スペイン王国(コルドバ)
出典
世界地図
スペイン王国(コルドバ県)

伝記

ヒシャーム1世は、757年に生まれ796年に没した、後ウマイヤ朝の2代目君主(アミール)である。788年から796年までイベリア半島のアンダルスを治めた。父は初代君主アブド・アッラフマーン1世で、子に3代目君主となるハカム1世がいる。コルドバに生まれ、母はハルルとされる。

父には11人の男子がいたとされ、晩年の父は後継者問題に悩んだ末、ヒシャームを後継者に指名して辺境区メリダの代官に任じた。このとき、年長の兄スライマーンは同じく辺境区のトレドの代官とされた。ヒシャームは徳と自制心を備えて広く支持されていたのに対し、スライマーンは年長で勇敢であり、かつてシリアから派遣されたアラブ人兵士たちに支持されていたという。父は、自分の死後に先に首都コルドバへ駆けつけた方を後継のアミールとすると言い残したと伝えられる。788年に父が没すると、ヒシャームは兄より先にコルドバへ着いて即位した。

即位に不服なスライマーンは、トレドやその近郊のアラブ人・アマジグ人の軍を率いてコルドバへ向かったが、ハエン近郊で敗れた。兄弟のアブドゥッラーと合流してトレドに籠城したものの、スライマーンは支持を求めたメリダに拒まれ、戦いに敗れてムルシアへ逃れた。これを知ったアブドゥッラーはトレドを明け渡してマグリブに亡命し、スライマーンもバレンシアに追われて790年に降伏し、同じくマグリブへ去った。兄弟は多額の金銭を受け取って永久の亡命を受け入れたともいわれる。以後、ヒシャームの子ハカムが即位までトレドの代官を務めた。

国内を平定したヒシャームは、北方のアストゥリアス王国に対して春から夏にかけての遠征であるサーイファを始め、これは以後アミールの重要な仕事となった。兵力動員令により、正規兵に加えて志願兵も戦利品の分配を報酬として募られた。793年にはフランク人に対するジハードを呼びかけ、ジローナやナルボンヌの砦は持ちこたえたが、将軍アブド・アルマリクがカルカッソンヌ付近でオランジュ公ギヨームを破った。得られた戦利品と奴隷は、コルドバの大モスクの拡張やモスクの建設の資金になったとされる。794年にはアストゥリアスの新都オビエドまで攻め入り、アルフォンソ2世は逃れてカール大帝との接触を図った。一方、地方の有力者に対しては力で抑えるのではなく、互いを対立させ、より忠実な者に地方を任せる策をとった。内政では、779年の洪水で壊れたグアダルキビール川の石橋を修理させた。橋の修理が狩猟のためだと噂されると、遠征の目的以外ではこの橋を渡らないと誓ったという。メスキータにはミナレットを建てたが、現在は土台部分しか残っていない。アンダルスでのラテン語の使用を禁じたともされるが、実際にはラテン語が消えることはなかった。

ヒシャームは「公正王」と呼ばれ、宗教界の支持を受けてマーリク学派の学者たちを国の中枢に据えた。マーリク・ブン・アナス自身が、敬虔と公正の模範として彼を称えたともいわれる。質素に暮らして敬虔であったと伝えられる。星占いによって自分の寿命が8年だと信じ、現世の楽しみを捨てて施しに努めたという。最も簡素な衣服で独りコルドバの道を歩き、庶民に交じり、病人を見舞い、貧しい人々の家を訪ね、夜には雨の中でも宮殿の食べ物を貧者に届けた。796年、40歳で没し、安定した王国を後継者に残した。死後、アブドゥッラーは亡命先から戻ってバレンシアを、スライマーンはタンジェを求めて、ハカム1世に対立した。

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