伝記
オファは、イングランド七王国時代のマーシア王国の王である。796年7月29日に没した。アルフレッド大王以前では最も強大なアングロサクソンの王と評され、その治世はイングランドが統一への歩みを速めた王権発達の画期とされる。ただし、同時代の伝記は残っていない。『アングロサクソン年代記』はおそらくウェセックスで編まれ、ウェセックス寄りの記述もあるため、マーシアの権勢を正確に伝えるとは限らない。そこで、オファの権力は、治世の勅許状からうかがわれる。血筋は、7世紀初頭にマーシアを支配したピュバの息子エオワの子孫で、オスモド、エアンウルフ、ジングフリッドを経てオファに至る。先代の王エゼルバルドも、系譜ではエオワの子孫であり、オファの祖父エアンウルフはそのいとこにあたる。ある勅許状にはオファがエゼルバルドの血縁者と記されている。妻の家系は不明だが、息子エグフリッドのほか、少なくとも3人の娘がいた。
716年からマーシアを支配してきたエゼルバルドは、757年に夜、護衛によって殺害された。跡を継いだベオルンレッドは、わずかな期間、不幸に統治したのち、同年にオファが流血によって王国を手に入れようとして敗走させたと記される。ただし、789年の勅許状に「オファ治世31年目」とあるため、王位に就いたのは758年だった可能性もある。オファは、ウィッチェやマゴンサエテなど、古くからマーシアに従属していた国々への支配を再び確立する必要があった。リンジー王国の王家の記録もこのころ消えている。ロンドンとミドルセックスも、治世の初めからオファの支配下にあったとみられる。
762年以降は、ケント王国の政治的不安定さを利用したと見られる。764年にはオファがロチェスターの所領を勅許し、その証人欄にケント王としてヘアベルトの名が見える。このヘアベルトは、オファの傀儡だったとする説もある。『年代記』の774年の項には、マーシア人とケント人がオットフォードで戦ったとあるが、結末は記されていない。伝統的にはマーシアの勝利と解されてきたが、784年の勅許状にケント王の名しかないことから、敗れたのはマーシアだったとも考えられる。785年から789年の勅許状は、オファがケントを「マーシア王国の一州」として扱ったことを示す。のちにオファの勢いは、エセックス、サセックス、ウェセックスにも及び、宗主権を認めさせた。イースト・アングリアでは王の首をはねて服属させた。ノーサンブリアは従属しなかったが、娘を嫁がせて軍事同盟を結んだ。ウェールズとの国境には、南北200キロメートルに及ぶ長大な土塁を築いた。この土塁は今も遺構が残る。
内政では、教皇ハドリアヌス1世を説き伏せてリッチフィールドに大司教座を設けさせ、息子エグフリッドの聖別式を行った。オファのペニー銀貨は高品質で量目が一定で信用があり、長くイングランド通貨の基礎となった。この貨幣はカロリング朝の硬貨を基本としていたことが、アルクィンの書簡から分かる。銀貨の刻印や勅許状では、主に「マーシア王」を称したが、一部では「アングル人の王」とも称した。フランク王国のカール大帝とは、子女の婚姻をめぐって一時対立したが、対等の立場で通商協定を結んだ。
オファの権力は、その個人の資質に依るところが大きく、死後のマーシアの隆盛は長く続かなかった。王位は息子エグフリッドが継いだが、在位5か月にも満たずに死去し、遠縁のケンウルフが王となった。その勢いはオファに及ばず、825年、マーシアはウェセックス王エグバートに敗れ、その属国となった。
同じ年に亡くなった人物
- エゼルレッド1世 (796年没)
- エグフリッド (マーシア王) (796年没)
- ヒシャーム1世 (796年没)
- ヤアクーブ・イブン・ターリク (796年)
- マーリク・ブン・アナス (796年没)