伝記
大伴弟麻呂は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿・武人である。大和守を務めた大伴古慈斐の子で、母は藤原不比等の娘とする説もあるが確かではない。生年は727年とも731年ともいわれる。史料に見える最初の征夷大将軍として知られ、最終の官位は従三位、勲等は勲二等であった。
若いころの昇進は早くなかった。藤原氏と大伴氏の対立が背景にあったためではないかともいわれる。光仁朝末の宝亀10年(779年)、従六位上から三階昇進して従五位下に叙され、翌年には衛門佐に任ぜられた。天応元年(781年)に従五位上・左衛士佐となり、同じ年に即位した桓武天皇の生母、皇太夫人・高野新笠のために中宮職が置かれると、その次官である中宮亮を兼ねた。延暦元年(782年)には常陸介となり、延暦2年(783年)には征東副将軍を兼ねて、一時東国の地方官を務めている。延暦6年(787年)に右中弁、続いて左中弁として京官に復帰し、延暦7年(788年)には正五位下に昇って皇后宮亮を兼ねた。延暦9年(790年)には河内守を兼ねている。
延暦10年(791年)、従四位上に叙されて征夷大使に任じられた。蝦夷との戦いは、先に任じられた紀古佐美が持て余したものであった。延暦11年(792年)11月に弟麻呂は一度辞表を出し、翌年2月には副使の坂上田村麻呂も辞表を出したが、どちらも認められなかったらしい。延暦13年(794年)正月、弟麻呂は征夷大将軍として節刀を授けられた。同年6月には副将軍の田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げた。延暦14年(795年)正月に節刀を返上し、2月7日には征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。
その後、蝦夷征討の任は田村麻呂が受け継ぎ、延暦16年(797年)に征夷大将軍となった。弟麻呂は東宮傅として皇太子の安殿親王に仕え、延暦18年(799年)には治部卿を兼ねるなど、京官を歴任した。延暦25年(806年)2月、老いて衰えたことを理由に辞職を願い出て許された。
大同4年(809年)5月28日に薨去した。享年79、最終の官位は散位従三位であった。子には伴勝雄(776年〜831年)があり、ほかに大伴東人、伴宇治人もその子とされるが、確かではない。田村麻呂の大きな働きの陰に隠れがちではあるが、最初の征夷大将軍として蝦夷との戦いの基礎を築いたとされる人物である。
同じ年に亡くなった人物
- リウドゲルス (809年)
- ハールーン・アッ=ラシード (809年没)
- ムハンマド・イブン・イスマーイール (809年没)
- Aureolus of Aragon (809年)
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