伝記
ムハンマド・イブン・イスマーイールは、イスマーイール派の第7代イマームとされる人物である。「隠された者」を意味するマクトゥームの称号でも知られる。シーア派の六代目イマーム、ジャアファル・アッサーディクの長孫で、イスマーイール・イブン・ジャアファルの長男にあたる。母はウンム・ファルワという奴隷身分の妻であった。その生涯には不明な点が多く、今日知られる情報の大半は、15世紀のイエメンのイスマーイール派学者で宗教指導者でもあったイドリース・イマード・アッディーンの記述に由来する。
生年については、765年に26歳であったという記述から逆算されるほか、739年11月とする天文学者の書もある。ムハンマドは祖父のもとで24年を過ごし、そのうち10年はメディナの家族とともに暮らしたと伝えられる。父イスマーイールは、アッサーディクから後継者に指名されていたとする説が多いが、祖父より先に亡くなったらしい。765年にアッサーディクが没すると後継者の問題は定まらず、支持者たちは分裂した。多くはイスマーイールの同母弟アブドゥッラー・アルアフタフに従い、ほかにイスマーイールの異母弟であるムーサー・アルカーズィムやムハンマド・アッディバージュに従う者もいた。指名はイスマーイールの子ムハンマドに移ったとする一派もあれば、イスマーイールは死んでおらず、隠れているだけで再び現れるとする者もいた。
アルアフタフは数か月後に亡くなり、ムハンマドはアッサーディクの家族の中で最年長の男子となった。ムーサー・アルカーズィムはムハンマドより約8歳若く、しかも奴隷身分の側室の子であった。これに対しムハンマドは、アリーの子ハサンの孫娘であるアッサーディクの妻ファーティマの血筋を引いていた。しかしアルアフタフの死後、その支持者の多くはムーサーのもとへ移った。叔父の支持者たちに脅かされ、さらにアッバース朝がアリー家の支持者を迫害したこともあって、ムハンマドは故郷メディナを離れて東へ向かい、身を隠した。これにより「隠された者」と呼ばれるようになった。まず南イラクへ行き、のちにペルシアへ移ったことは確かだが、最終的な行き先についてはさまざまな地名が挙げられている。居場所を知るのは、ごく少数の責任ある支持者だけであったという。スンナ派の歴史家タバリーはムハンマドを伝承者(ラーウィー)と呼んでおり、この称号は身を隠す前に得たものと考えられる。後のイスマーイール派は、この移住を初期の教団における隠れの時代の始まりとし、それはファーティマ朝の成立で終わるとみなした。
晩年はペルシア南西部のフーゼスターンで過ごしたらしい。そこには一定数の支持者がおり、ムハンマドは自らの宣教師を周辺地域へ派遣した。正確な没年は不明だが、名高いハールーン・アッラシードの治世のうちに亡くなったことはほぼ確実で、アッラシードがムーサー・アルカーズィムを捕らえてイラクへ送った795年から796年の直後かもしれないといわれる。ムハンマドに敵対的な十二イマーム派の伝承は、ムーサーをアッバース朝に売ったのはムハンマドだと主張する一方、二人の和解の物語も伝えている。
メディナにいたころに二人の息子イスマーイールとジャアファルが生まれ、東への移住後にさらに四人の息子が生まれた。そのうちのアブドゥッラーが、後のイスマーイール派によれば正統な後継者であった。ムハンマドの子孫が、のちにイフリーキヤ、さらにエジプトとレヴァントの大半を支配し、カイロを築いたファーティマ朝になったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- リウドゲルス (809年)
- 大伴弟麻呂 (809年没)
- ハールーン・アッ=ラシード (809年没)
- Aureolus of Aragon (809年)
同じ地域に関係する人物
- セクストゥス・ウァリウス・マルケルス (216年没)
- デメトリオス1世 (マケドニア王) (紀元前283年没)
- アブ・アル=フィダ (1331年没)
- ガイウス・ユリウス・サトゥルニヌス (281年没)
- アーディル・キトブガー (1302年没)