HISTORICAL PERSON · 809年没

ハールーン・アッ=ラシード

アッバース朝第5代カリフ。治世は王朝の最盛期にあたり、『千夜一夜物語』で全盛期に君臨した偉大な帝王として語り継がれる。

生涯
809年没
死亡地
イラン共和国(ラザヴィー・ホラーサーン州 / トゥース)
出生地
イラン共和国(レイ)
出典
世界地図
イラン共和国(ラザヴィー・ホラーサーン州)

伝記

ハールーン・アッ=ラシードは、アッバース朝の第5代カリフで、在位は786年から809年である。生年には763年から766年まで諸説があり、イラン北部のライで生まれたとされる。父は第3代カリフのマフディー、母は南アラビアのイエメン出身の元女奴隷ハイズラーンで、同母兄に第4代カリフのハーディーがいる。幼少期には歴史・地理・修辞・詩などのほか、ハディースとクルアーンの習得に多くの時間を割き、剣術や弓術、戦術も学んだと伝えられる。妃には、マンスールの孫にあたる従妹のズバイダを正妃に迎え、子にはアミーン(母はズバイダ)、マームーン(母はマラージル)、ムウタスィム(母はマーリダ)をはじめ多数がいる。

即位前の780年と782年には、名目上の総指揮官として東ローマ帝国への遠征に加わった。後者はコンスタンティノープルのアジア側の郊外にまで達する大遠征で、歴史家タバリーによれば、東ローマ側は数万の兵を失い、戦利品の運搬には2万頭のラバが使われたという。この功績で「ラシード」の称号を与えられ、皇太子に立てられて、シリアからアゼルバイジャンに至る西部領の統治を任された。父の死後、785年に兄ハーディーが即位したが、ハーディーは母ハイズラーンの政治介入を嫌って衝突し、ハールーンの皇太子位を廃して自分の息子を立てようとした。しかしハーディーは在位わずか1年余で急死した。死因は腹部の潰瘍とも、母による暗殺ともされ、記述は一致しない。ハイズラーンは強い個性で知られ、夫マフディーと息子たちの治世で国政に大きな影響を及ぼした女性であった。

ペルシア人官僚ヤフヤー・イブン=ハーリドの後見を受けていたハールーンは、786年に23歳でカリフの座に就いた。ヤフヤーが宰相に就き、その息子ファドルとジャアファルらバルマク家の人々が治世を支えた。兄が投獄していたウマイヤ家やアリー家の人々を釈放し、クライシュ族の全派に恩赦を宣言するなど、内政では父マフディーに近い方針をとった。796年には宮廷をユーフラテス川中流のラッカへ移し、以後の治世をそこに築いた宮殿で過ごした。ラッカは農業と交通の要所であり、東ローマとの国境に近い最前線でもあった。797年、803年、806年と3度の親征でいずれも勝利を収め、アッバース朝の勢力は最盛期を迎えた。

一方、803年には権勢を強めたバルマク家の追放を決意し、ヤフヤーとファドルを捕らえ、ジャアファルを処刑して財産を没収し、カリフの直接統治を始めた。だが対外的な絶頂の陰で、帝国内部では地方の反乱が相次ぎ、分裂の兆しが現れていた。バルマク家の追放後は側近の軍人が力を持ちはじめ、のちのマムルーク支配につながる端緒もみられ、統一とカリフの支配力が緩みはじめた時期でもあった。

文化の面では学芸を奨励し、バグダードに伝説的な図書館「知恵の館」を設け、同地は知識・文化・交易の中心として栄えた。799年にはフランク王国の使節が友好を求めて訪れ、ハールーンは返礼の品を携えた使節を、カール大帝の宮廷へ送り返した。その中の時計は、時を告げる音と仕掛けのため、大帝の一行に魔術と思われたという。809年3月に没した。その名は『千夜一夜物語』に、夜のバグダードに繰り出す風流な君主として語り継がれ、後世にはイスラム文化の黄金時代の象徴とされている。

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