伝記
ステファヌス4世は、九世紀初めに在位したローマ教皇である。生年は770年頃とされるが確かではなく、816年6月22日に教皇となり、翌817年1月24日に世を去った。在位はわずか七か月ほどであったが、その間に行った戴冠式は、後のヨーロッパ史に大きな影響を残す出来事となった。なお教皇の数え方には揺れがあり、ステファヌス5世とも書かれることがあるが、現在の教皇庁と『教皇庁年鑑』が正式に認めているのは、816年に即位した本項の人物を4世とする数え方である。
出身はローマ市の貴族階級で、フランス語版の記述によれば、父はマリヌスという名のローマの貴族であった。同じ家系からは、後に教皇となるセルギウス2世やハドリアヌス2世も出たという。若いころはラテラノ宮殿で育てられ、先代の教皇レオ3世のもとで副助祭、続いて助祭に叙階された。ローマの民衆に人気があり、レオ3世の死から十日以内に聖ペテロ大聖堂へ導かれ、ローマ司教として聖別された。この素早い選出については、皇帝が教皇選挙に口を挟めないようにするためのローマ聖職者の試みだったとする説も唱えられている。
即位するとすぐ、ステファヌスはローマの市民に対し、フランク王にして西方皇帝であるルートヴィヒ1世への忠誠を誓うよう命じた。先代レオ3世の路線を受け継ぎ、フランク王国との結びつきをさらに深めたのである。皇帝に使者を送って選出を知らせ、会見の場を設けることも申し入れた。ルートヴィヒの招きに応じてアルプスを越え、816年10月の初めにランスで皇帝と会った。皇帝は教皇の前で三度身を伏せたと伝えられる。日曜のミサでステファヌスは皇帝に塗油を施して冠を授け、皇帝の妻エルマンガルドにも皇后の冠を与えた。この冠はコンスタンティヌス大帝のものと称されていた。ルートヴィヒは教皇に贈り物をし、教皇領の維持を含む、教皇とフランク王との取り決めを更新した。またステファヌスはオルレアン司教テオドゥルフを大司教に引き上げ、皇帝はローマ出身の政治犯を流刑から解いたという。
教皇は、メスのクロデガングの規則のもとで暮らす聖職者についても、改革を行うよう皇帝に求めたと考えられている。男女は別々の修道院で暮らすこと、家屋は共有の財産として保有すること、飲食物の量も定めることなどである。帰路にはラヴェンナに立ち寄り、大司教マルティヌスの迎えを受けてローマへ戻った。帰還の時期は、日本語版が翌817年、フランス語版が816年の終わり近くとしており、資料の記述が食い違う。その後は、聖職者を貴族より優遇する路線をやめたようで、司祭や司教の叙階を従来どおりに行った。816年12月にはファルファ修道院の所領を確認し、修道士が毎日キリエ・エレイソンを百回唱えることと、毎年金貨十ソリドゥスをローマ教会へ納めることを条件としたとされる。ステファヌスは817年1月24日に没し、聖ペテロ大聖堂に葬られた。
ランスの戴冠は、当時は祭礼的な儀式にすぎず、皇帝が教皇を呼びつけて行わせたことも、皇帝権の優位を確かめるものと受け取られた。ルートヴィヒ自身は813年に市民の歓呼で即位している。しかしレオ3世とステファヌス、さらに823年のパスカリス1世によるロタール1世への戴冠が続くうち、皇帝即位で教皇が戴冠と塗油を担うことが、西方でも次第に伝統的な儀式として受け入れられていった。
同じ年に亡くなった人物
- Grimoald IV of Benevento (817年)
- 李賀 (817年没)
- イエイシェ・ツォギャル (817年没)
同じ地域に関係する人物
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- ゲラシウス1世 (ローマ教皇) (496年没)
- グイード・マゼッティ (1993年没)
- セルギウス1世 (ローマ教皇) (701年没)
- ユリア (紀元前68)