伝記
トゥキュディデスは、紀元前460年頃に生まれ、紀元前395年頃に没した古代アテナイの歴史家である。オロロスの子で、アテナイのハリムス区の出身とされる。ペロポネソス戦争を著した『戦史』の作者として知られ、生涯についての確かな情報は、戦争に参加した、疫病にかかった、民主政によって追放されたと自ら記した部分に多くを頼る。ヘロドトスが聞き取りに基づく物語風の『歴史』を著したのに対し、彼の叙述は同時代の出来事を扱いながら中立的な視点を保つ点で対比される。
家系については、父の名オロロスがトラキアの王家と結びついた名であることから、トラキアと縁の深い家であったと考えられる。有力な政治家で将軍だったミルティアデスや、その子キモンとの血縁も、おそらくあったとされる。一家はトラキアの大きな所領を持ち、金鉱も所有していたようで、彼自身も対岸のスカプテ・ヒュレに金鉱を持っていたと記している。若い頃、ヘロドトスの朗読を聞いて感激して涙を流したという逸話もあるが、これは後世のギリシアやローマの伝記に由来する話で、争いがあるとされる。彼はアテナイを襲った疫病にかかりながら生き延び、この病でペリクレスら多くの市民が亡くなったことを記した。
ペロポネソス戦争では、トラキア方面への影響力を買われて、紀元前424年ごろに将軍としてタソス島へ派遣された。その冬、スパルタの将軍ブラシダスがトラキア沿岸のアンフィポリスを攻めると、現地のアテナイ側の指揮官から救援を求められた。しかしブラシダスは、トゥキュディデスがタソスにいて、アンフィポリスの人々に影響力があることを知っており、海から援軍が来る前に穏当な条件を示して降伏させた。彼が着いたときには、すでに町はスパルタの手に落ちていた。この町は戦略上きわめて重要で、陥落の責任は彼に問われ、20年の追放刑に処された。本人は間に合わなかっただけだと述べたとされる。
追放の身となった彼は、ペロポネソス側の同盟国も自由に旅することができ、戦争を双方の立場から観察できた。彼は、これがギリシア人の間で戦われた最大級の戦争になると考え、開戦とほぼ同時に記述を始めたと述べている。追放後はトラキアの所領に暮らし、金鉱の収入があったことで、歴史の執筆と調査に専念できたと一般に言われる。『戦史』は、神々の介入に頼らず、公平さと証拠、原因と結果を重んじる姿勢から、科学的歴史学の父とも呼ばれる。政治家や軍人の演説を随所に挿入して人物に直接語らせる手法をとり、なかには裏づけがあるとは思えないものも含まれる。開戦一年目の戦没者追悼式でのペリクレスの演説が最も名高い。記述は紀元前411年で途切れ、理由は不明だが、その後も彼は生きていたので、中断は死によるものではない。後にクセノポンが中断部分から筆を起こし、紀元前362年までを『ギリシア史』として記録し、戦争の記録を完成させた。
その著作は、個人や国家の行動が恐れと利害によって動くとみる政治的現実主義の源流と評され、今も大学や軍の学校で読まれている。メロス人との対話は国際関係論の重要な文献とされ、疫病や虐殺、戦争といった危機のなかでの人間の本性を理解しようとした点でも知られる。「トゥキュディデスの罠」といった概念も、彼にちなんで生まれたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- リュサンドロス (提督) (紀元前395年没)
- 李克 (紀元前395年没)
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