伝記
フリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルトは、1769年9月14日にベルリンのプロイセン貴族の家に次男として生まれたドイツの博物学者、探検家、地理学者である。兄はプロイセンの教育相や内相を務めた言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトである。国王の侍従であった父は温厚な人物だったが、アレクサンダーが9歳のときに亡くなった。母は孤高で冷たく尊大な清教徒的な人で、兄弟の教育は家庭教師に任された。幼いころから花や蝶、昆虫、貝、石ころを集めて分類しラベルを貼り、暇があれば本を読んで外国旅行や冒険を夢見ていたが、兄が勉学に才能を発揮した10代前半には、物覚えが悪くひ弱で落ち着きのない子であったという。16歳のとき、ユダヤ人の医師マルクス・ヘルツを紹介されたことが契機となって、科学へ傾倒していった。
18歳で母の希望によりフランクフルト・アム・オーデル大学に入り、ゲッティンゲン大学、フライベルク鉱山専門学校でも学んだ。ジェームズ・クックの第2回探検隊の隊員だったゲオルク・フォルスターと知り合い、彼とヨーロッパを旅したことが世界探検へ向かうきっかけとなった。1796年11月に母がガンで亡くなると、家庭の絆から解放され、遺言で相当額の遺産を相続した。翌1797年2月に鉱山の職を辞して本格的な探検調査に乗り出し、ウィーンで探検に役立つ諸科学を学んだ。スペイン首相の後援を受けて当時のスペイン領アメリカへ向かい、1799年から1804年にかけて南北アメリカを広く旅した。カナリア諸島のテネリフェ島では流星雨を観察し、その周期性の研究は今日の天体観測の基礎となった。南米ではオリノコ川とアマゾン川が支流で結ばれていると断定し、動植物を調べた。コロンビアからアンデス山脈伝いにペルーまで困難な探検を行い、チンボラソ火山の山頂まで400メートルの地点に達してリマに着いた。このとき、ペルー沿岸の海流を調べたことにちなみ、フンボルト海流の名がついた。
帰国後はベスビオ火山を調べ、1807年にベルリンで『自然の風景』を出版し、研究をまとめるためパリに居を定めた。名声はヨーロッパ中に轟き、ナポレオンに次いで有名な人物とも言われた。熱帯の山地調査により自然地理学と地球物理学の基礎を築き、6万種に及ぶ標本を集めて、その中には数千の新しい種や属が含まれていた。1817年には等温線図を作成し、海抜が増すにつれて気温が下がる割合も明らかにした。地球の磁力の強さが極から赤道に向かって減少することを発見したのも彼である。それまで互いに独立していると思われていた動植物の分布と、緯度や気候などの地理的な要因との関係を説いた大著が、近代地理学の金字塔となる『コスモス』である。カール・リッターとともに近代地理学の祖とされ、ゲーテやシラー、シモン・ボリバルとも親交があった。
自由な科学者との交流が得られるパリを好み、プロイセン宮廷の職を得てもできるだけ滞在したが、1827年2月にパリを去り、ロンドン経由でベルリンへ帰った。以後も年に数か月はパリで過ごした。晩年は訪問客が絶えず、年に平均三千通あまりの手紙を受け取り、そのうち二千通には自ら返事を書いた。財政的に苦しく、定収入のため宮廷の職を退かなかった。残りの人生を『コスモス』の完成に注ぎ、第3巻を1850年、第4巻を1858年に刊行し、第5巻に力を尽くした。1859年に89歳で没し、国葬が営まれた。5月11日に棺は兄とその妻カロリーネの傍らに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- トーマス・マコーリー (1859年没)
- イザムバード・キングダム・ブルネル (1859年没)
- Charles Lenormant (1859年没)
- カール・アドルフ・アガード (1859年没)
- ペーター・グスタフ・ディリクレ (1859年没)
同じ地域に関係する人物
- ペーター・ビエリ (2023年没)
- ヴォルフガング・ヘルンドルフ (2013年没)
- カール・リーバーマン (1914年没)
- ヨーハン・ジギスムント (1619年没)
- ヘルマン・ムテジウス (1927年没)