伝記
最澄は、平安時代初期の日本の僧で、日本の天台宗の宗祖である。伝教大師の名で知られる。766年とも767年ともいわれ、公文書は766年、没年齢から逆算する伝記類は767年とする。近江国滋賀郡の古市郷、あるいは坂本の生源寺の地に生まれ、俗名は三津首広野といった。父は伝記では三津首百枝、780年の公文書では三津首浄足とされ、正八位下の身分だったという。伝記には、子に恵まれなかった両親が比叡山の神宮で祈って最澄を授かったとある。幼いころから非凡な才を見せ、7歳のころに仏道を志したと伝えられる。
780年11月、近江国分寺で得度して沙弥となり、最澄と名付けられた。それまでの3年ほどは国分寺で雑用をしながら『法華経』などの経典を学んでいたと考えられる。近江国師の行表に師事し、785年4月に東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となった。ところが同じ年の7月中旬には比叡山に籠もる。官僧として順調だった最澄が山に入った理由は定かではないが、入山後も官僧の務めを果たし、南都の諸宗とも交流を続けており、既存の仏教への嫌気からではなかったと考えられる。山で『願文』を著し、788年には小堂を建てて自ら刻んだ薬師像を安置した。これがのちの一乗止観院である。『法華経』の研究を重ねるなかで、智顗の天台の教えを得たいと思うようになった。797年には内供奉に任ぜられ、比叡山に一切経を揃える写経事業を発願して、南都の寺々に助力を求めている。798年からは法華十講を行った。
802年、和気弘世が氏寺の高尾山寺で開いた天台法門の講会に最澄は講師として招かれた。当時の朝廷は、三論宗と法相宗が角突き合わせる仏教界の秩序を整えたい事情があり、これが天台宗の開宗を後押ししたと考えられる。桓武天皇は最澄本人の入唐を命じ、最澄は義真を訳語僧として伴うことを願い出て許された。与えられた入唐の費用は金銀数百両で、遣唐大使の200両、副使の150両よりも大きな額であった。804年7月、肥前国から出港し、9月に明州へ着いた。台州では道邃や行満に会い、天台山で経典を授かり、805年3月には道邃から菩薩戒を受けた。天台山での成果は書物120部345巻に及んだ。その後越州に向かい、順暁から灌頂を受けて書物102部115巻と密教の道具を得て、5月に帰国の途に就いた。
805年6月に対馬に着いた最澄はただちに上京した。持ち帰った天台の教えは勅命で7通が書写され、三論宗や法相宗の僧に学ばせたという。密教も歓迎され、灌頂や祈祷が繰り返し行われたが、桓武天皇の病と関係があると考えられる。806年正月、天台法華宗に年分度者を認める改正を上奏し、同月の太政官符で『大日経』を学ぶ遮那業と『摩訶止観』を学ぶ止観業が一名ずつ割り当てられた。ただ得度した24名のうち14名が比叡山を去っており、最澄は『顕戒論』に危機感をにじませている。
空海が806年に帰国すると、最澄は密教の習学を申し出て、809年から816年ごろまで弟子を送って経典を借り写した。812年には空海から金剛界と胎蔵界の灌頂を受けた。空海は最澄に、大法を受けるには3年とどまるよう伝えていたが、すでに一宗の責任者であった最澄には果たせなかった。この修行の叶わなさが二人を疎遠にした根本の理由と考えられる。天台と真言は同じ一乗だとする最澄に対し、空海は天台を真言より低い教えと見ていた。最澄は822年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ターヒル・イブン・フサイン (822年)
- ハカム1世 (822年没)
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