HISTORICAL PERSON · 822年没

ハカム1世

後ウマイヤ朝の君主で、796年から822年までアンダルスを治めた。トレドなど各地の反乱の鎮圧に追われ、806年には宴の席で貴族を含む5000人を殺害。818年には知識人を弾圧した。

生涯
822年没
死亡地
スペイン王国(コルドバ県 / コルドバ)
出生地
スペイン王国(コルドバ)
出典
世界地図
スペイン王国(コルドバ県)

伝記

ハカム1世は、771年にコルドバで生まれ、796年から822年までアンダルスを治めた後ウマイヤ朝の君主である。アブドゥッラフマーン1世の孫で、ヒシャーム1世の子にあたる。母はズフルーフという名の妾であった。兄がいたが成人を待たずに亡くなり、あるいは理由は不明ながら兄より後継に選ばれたともされ、ハカムが王朝を継いだ。この呼び名は欧米での慣用で、アラビア語の史料では、治世中にコルドバの郊外で起きた反乱にちなんだ名で呼ばれることが多い。

796年に父が没すると、王家の内部の対立が表に出た。父の兄弟にあたるスライマーンとアブドゥッラーが、自分たちにも権利があると主張したのである。アブドゥッラーはバレンシアで支持を集め、息子のウバイドゥッラーとアブドゥルマリクをエクス・ラ・シャペルのシャルルマーニュの宮廷に送って援軍を求めた。798年にシャルルマーニュが遠征を決めたとされ、800年には王子ルイが北東部に兵を進め、ウエスカとリェイダを略奪し、801年にバルセロナを手に入れた。スライマーンはタンジェからコルドバを攻めたが反撃され、メリダまで退いたところで捕らえられた。ハカムは父がこの叔父を許していたのとは違う道を選び、反逆の罪で処刑した。アブドゥッラーは、コルドバの宗主権を認める代わりにバレンシアの統治と自治、毎月の手当を得る合意を結んで赦された。

治世には、トレド、サラゴサ、メリダで反乱が相次ぎ、鎮圧に多くの時間を割いた。反乱軍がコルドバまで押し寄せたことも2度ある。ハカムを退位させ、従兄弟のムハンマド・ブン・カースィムを君主にする陰謀もあったが、事前に露見した。806年11月16日の宴席では、72人の貴族を含む5000人の出席者を皆殺しにし、遺体をグアダルキビル川の土手にさらした。反乱軍や北のキリスト教徒領に攻め入ったときも、敵の首をコルドバの城門にさらしており、こうした残酷さは当時でも珍しかったとされる。トレドでは、将軍アムルース・ブン・ユースフが包囲で奪還できず、内部の切り崩しで首謀者を順に除き、宴に招いた名士たちを一人ずつ処刑して溝に投げ込んだ。数百人が殺されたという。メリダの反乱の鎮圧には7年を要した。

コルドバでの反乱後、ハカムは身辺の警護に気を配り、自身と個人的に結びついた親衛隊をつくった。隊長には、西ゴート王国時代に貴族だった家柄のテオドゥルフの子ラビを取り立て、徴税権も与えたが、ラビはのちに失脚し、横領の罪で磔にされた。814年には、ヤフヤー・ブン・ヤフヤーら法学者たちが、ハカムの残虐さや宗教上の戒めを破る行い、酒色にふけることなどを理由に、転覆の陰謀を企てた。ハカムはコルドバの城壁を固め、堀を掘り、王宮前に馬を集め、常設の武装した護衛を置いた。これが郊外の住民の憎しみをいっそう強めた。818年、ハカムはグアダルキビル川を挟んでコルドバの反対側にある郊外の集落ラバドに集まっていた知識人たちを弾圧した。300人が磔にされ、残りは追放されて、フェズやアレクサンドリアなどへ向かった。レバントの海賊に合流してクレタ島の占領に加わった者もいる。

ハカムは822年に没し、統治は太陽年で26年に及んだ。後継のアミールは子のアブドゥッラフマーンである。ほかにも子があり、ワーリドは838年のガリシア侵攻軍を率いた。妻アジャブはコルドバの郊外に重い皮膚病患者のための施設を建て、ワクフの収益で運営させた。妻ムトアは墓地を設け、それは10世紀まで存続した。マーリク学派の見解がアンダルスの法的見解の基準になったのも、この治世のこととマッカリーは語る。

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