伝記
ウァレンティヌスは、第100代ローマ教皇(在位827年8月31日〜10月10日)である。在位はわずか40日ほどで、生年は800年頃とする資料と780年とする資料があり、はっきりしない。ローマの貴族の家に生まれ、ローマのヴィア・ラータ地区の出身で、父はレオンティウスという名の貴族であった。幼いころから学問の才を示し、ラテラノ宮殿に付属する学校から移されて聖職の道に進んだとされる。
教皇列伝によれば、第98代教皇パスカリス1世の下で助祭に任じられた。伝記の著者は彼の信心深さと清らかな品行を称えており、その評価がパスカリス1世の厚い信頼を招いて、やがて彼は大助祭に引き上げられたという。パスカリス1世が彼を枢機卿にしたとする記述もある。パスカリス1世の後継者エウゲニウス2世からも明らかに目をかけられており、その度合いは、ウァレンティヌスは実はエウゲニウスの子だという噂が流れるほどであった。ほかにも、二人が不適切な関係にあったとする噂を、後世の著述家が紹介している。
827年8月にエウゲニウス2世が亡くなると、ローマの聖職者、貴族、民衆は彼を教皇として歓呼で迎えた。人々は本人の抗議を顧みず、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂から彼を連れ出してラテラノ宮殿に据えたという。あまりに事を急いだため、彼は司祭に叙階される前に即位の座に就いてしまった。これは通常の手順とは逆で、記録に残る教皇の歴史では初めてのことであり、のちのベネディクトゥス3世の時代にも同じことが繰り返された。翌日曜日に、彼はサン・ピエトロ大聖堂で正式に司教として聖別された。選挙の場にはフランク皇帝の代表は居合わせず、彼は皇帝から選出の承認を受ける機会もないまま、五週間足らずで没した。没日は827年10月10日である。信仰が篤く、柔和で寛大な人柄であったと伝えられ、その叙任は大きな歓喜をもって迎えられたという。
彼の選出は、教皇選挙に対するローマ貴族の影響力が強まっていたことを示す出来事とされる。貴族は自分たちの仲間の一人を教皇に押し上げただけでなく、選挙そのものにも加わった。769年のラテラノ公会議は、教皇の選出はローマの聖職者だけの責務であり、貴族は教皇が選ばれ即位した後に敬意を表するだけだと定めていた。しかし817年の皇帝の勅令により、ローマの俗人貴族が教皇選挙に参加することが認められ、この決定は事実上失効していた。こうした貴族の関与は徐々に深まり、10世紀には教皇位がローマの貴族の思うままになる状況にまで至ったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- 敬宗 (唐) (827年没)
- トリノのクラウディウス (827年)
- イスハーク・イブン・イブラーヒーム・アン=ナディーム・アル=マウスィリー (827年(推定))
- アーダルハルト (827年(推定))
- アンジェロ・パルテチパツィオ (827年)
同じ地域に関係する人物
- マリオ・ランツァ (1959年没)
- ニカエウスのパルテニオス (紀元前100)
- Maria De Mattias (1866年没)
- ルイ1世 (モンパンシエ伯) (1486年没)
- Tatiana of Rome (226年没)